8cmのピンヒール

月を見て綺麗だねと言ったけど あなたしか見えてなかった

心を揺さぶるのは、大嫌いで大好きなモノ

結局のところ、人は感情のブレに弱い。「ギャップ萌え」という言葉があるように、もともと知っていたモノについて、自分の想像の範疇になかった姿を見ると、とてつもなく感情が揺さぶられる。そして、いつのまにかそのこと以外考えられなくなって、嫌いだって思っても、結局好きになっていたりする。

 

わたしは何事も直感型だから、直感的に好きになったモノのことは永遠に好きだけど、もともと好きなモノに対してこういう感情のブレが発生してしまうともうだめだ。こういうところが大嫌いって気づいてしまって、だけどやっぱり大好きなのに変わりはなくて、なんだか離れられなくて。いつのまにか、嫌いなところすらなんだか癖になる。こうなるともう抜け出せない。

 

ある日の仕事終わり、わたしは学生の時のことをぼんやりと思い出していた。京都の中学に入学して、新入生歓迎公演を見て心を奪われた演劇部に入ったときのこと。そこには、綺麗で可愛くてかっこよくて演技が上手くて、世間一般的なイメージとして持たれがちな演劇部の印象とはかけ離れた世界で生きている先輩がたくさんいた。

わたしはとんでもない人見知りなので、全然馴染めなかったけど、夏休みも休むことなく、たとえ自分にやることがなくても、淡々と部活に通っていた。

高校生になると大会が本格的になって、部員も増えた。悩んであがいてもがきながらも、全国大会に行くっていうひとつの目標に向かってみんなで突き進んでいたあの頃。

 

わたしは演劇が大好きで大嫌いだった。部活そのものは大好きだったけど「演劇」そのもので考えると、そこにはさまざまな感情がある。

6年間演劇部に所属していたけど、わたしは演技への苦手意識がずっとある。それは今も変わらない。

はじめての演技の記憶は、幼い頃所属していた芸能スクールでのレッスン。鶴になりきれ、と言われて、全然上手くできなくてこっぴどく叱られたのを覚えている。悔しかった。人生ではじめて、信じられないぐらい泣いた。

わたしの部活は演技と一緒にダンスで表現するところに定評があったのだけれど、苦手意識に関してはダンスも然り。かつて大きな舞台のオーディションで、覚えが悪くて最初は前にいたのにどんどん後ろにいかされた時の記憶はこびりついて離れないし、少なくとも2年ちゃんと習っていたHIPHOPのことも、正直もう記憶にない。

表現者として自信のあるものが、何一つなかった。わたしの声には抑揚がなくて、感情がこもっているように聞こえないと指摘された。もうほんとに向いてないんだって思った。

でも、わたしは演劇が大好きだった。演技をしている間は、自分じゃないほかの誰かになることができる。ほかの世界に入り込むことができる。楽しいことばかりではない独特の世界観を、みんなで考えて創りこんでいく。

夏休みには朝から晩まで詰め込んで練習を行なって、休憩時間にはホールの椅子で寝た。雨の日の放課後、みんな授業が忙しくて暗い倉庫にひとりでペンキを塗りに行ったこともあった。本番前にはみんなでメイクをして、楽屋で差し入れを食べて少しお喋りして、楽しもう!って言って円陣を組んだ。そして、緞帳が上がる直前、独特な緊張感とともに、自分ではない誰かになった。

そのすべてが楽しくて、もっと上手くなりたくて、みんなのなかの一人ではなくて、役として存在感を残せるようになりたいとも思った。でも、真面目に取り組めば取り組むほど、どうすればいいのかわからなくなっていった。

 

圧倒的に主役が似合う親友や外部で努力を重ねて功績を残す同期に憧れ、考えることがたくさんあった。何をするにおいても自分は選ばれる側にはなれないんだな、って尽く思った。それはただわたしの努力が足りなかったうえに、努力の仕方を間違えていたということも大いにあると思うんだけど、当時のわたしはそれに気付けるほど大人じゃなかった。

 

重く考えすぎだってよく言われる。でも、わたしはそれぐらい必死で焦がれていた。どんな面でも誰にも勝てている気がしないし、嫌になることもたくさんあって、演劇向いてない、大嫌いだって思う日も幾度もあった。それでもやめられなくて、ずっとずっと。気づいたら自分に納得できないまま、月日だけが過ぎていた。結局わたしは中途半端なまま、演劇をやめた。

何事も悔しいという感情を抱かなくなったら潮時なんだと思う。大好きで大嫌いだった演劇をやめて後悔しなかったのは、自分よりもっと向いてる人がいるって気づいたからだ。

 

それでも、表現することだけはどうしてもやめられなかった。とても辛くて苦しくて、何も考えたくない日も、考え続けなければいけない。それが何かを表現するということなのに、そんな苦しみがあるとわかっていてもなお、そこからは離れられなかった。

 

だからわたしは今日も書いている。演劇への苦手意識をきっかけに、自分は表現者に向いてないって思うことが増えて、本当は今も書くのが少し怖い。書くことが100%全力で好きかって言われたらやはりそうではなくて、どうしても書けない日もある。仕事でもたまに何かしらの文章を書くことがあるけど、何をどう表現すればいいのかわからなくなって、もう考えたくない、って嫌になることの方がむしろ多いかもしれない。

そういう日は書くことなんて大嫌いだって思うけど、それを乗り越えて納得のいくモノを生み出せたときには、大好きだって思う。

本当に都合の良い思考回路だけど、何かに本気で向き合っていたら、きっと誰だってこうなると思っている。

 

大嫌いで、大好きで、だけど大嫌いで、やっぱり大好きで。そういう感情に揺さぶられて、人は何かに夢中になるのだ。

だからわたしももう少し、「書くこと」を通して表現と向き合ってみようと思う。

カタチは変われど、大嫌いで大好きなものの軸はずっと変わっていないんだなと、気づかされた夜だった。