大人になんてなりたくない
言いたいことも言えなくなるのが大人になるってことなら、大人になんてなりたくない。
いつのまにか空気を読むようになって、物分かりが良くなった。
「ちゃんとわかってるね」って言われたら、何も言えないに決まってる。
いつだって、正論ばかりが正しいわけじゃない。
結局、欲しいものを素直に欲しいと言えた人が、何でも手に入れていく。
でも、じゃあ大人になるしかなかった人たちはどうすればいいんだろう。
子どもじみた考え方にイライラされて、そんなんじゃどこでもやってけないよって辛く当たられた。
でも、ふたを開けてみれば、自分のもどかしい気持ちをぶつけられていただけだったり。
本当はこの人は何が欲しいのか?何を求めてるのか?と考えながら、一人ひとりと丁寧に接しようとしてる自分がばかみたいだ。
世の中にはどうしようもないことがある。
人は本当に辛いことがあると、感情を押し殺すことができるらしい。自分で自分を騙すことも簡単だ。
自分を騙せるようになると、辛いとか苦しいとか、自分の中にあるはずの感情に気づくことができなくなる。それが一番怖いことだ。
だから、向き合ってみようとするけれども。
それでも、やっぱりどうしようもないことはあるのだ。
口にしないことで均衡を保つ関係性がある。
何も言わなければ、見なかったことにすれば、気づいていないことにすれば、みんなが幸せでいられる。
自分さえ知らないふりをすれば、誰も泣くことはない。
一見平穏に満ちた日々を壊そうと思えるほど、わたしは大人にも子どもにもなれなかった。
民俗学の本を読んでいたら、人が幸福を感じる瞬間についてこのような見解が述べてあった。
私たちが幸福と感じるのは、「他人とのすばらしい関係が成立したとき」ではないでしょうか。〔中略〕人間というのは不思議なものですね。自分の行いで、身近な人や偶然会う行きずりの人がハッピィになると、心から嬉しいものです。
(鳥越晧之「サザエさん」的コミュニティの法則)
人がただ純粋に人を思いやって、見返りを求めず小さな心遣いをする。そんな他人同士の小さな親切が当たり前にある日常こそ一番幸せなのだという。
人と人との関係って本来そういうものなのではないだろうか。気休めでもいいからって自分に優しくしてくれる人を求めても、そこに中身なんかないのに。
人脈って言葉がこの世で一番嫌いだ。人との関係は脈で表すようなものじゃないと思う。
「で、それをすることで何のメリットがあるの?」
人間関係にメリットもデメリットもなくない?と言ってやりたい。そんなものも飛び越えて何かしてあげたいと思うのが、本当の友達っていうんじゃないの?
「もっとうまくやりなよ。」ばかみたいだ。打算的な関係性なんてつくりたくない。
でも、今の日本社会では、ちゃんとうまくやれないと生きていけないらしい。そんなことを聞くたびに、泣きたくなる。
とはいえ、わたしだってどこか考えて行動してしまう。ここでこういう発言をしておこうとか、こういう風に見せておこうとか。就職活動っていう一種の戦場は、まさにそんな場所だった。(もちろん、すっごく大好きで信頼できる友達に出会えた場でもある。インターンは誰よりも楽しんだ。)
このような行動が一概に悪いことだと言いたいわけではない。器用に生きるということはそういうことだ。それが出来る方がずっとずっと生きていきやすい。
でも、そんな計算をする度に自分のことが嫌いになる。
「そういうもんだよ」って言うけど。言われてしまえば、そうなのかもしれないけど。
それでも、最後に愛されるのは、ありのままの自分でぶつかっていくことのできる人だったりする。優等生じゃだめなのだ。
もっと、わがままになれたら。
好きなものを好きだと言えるようになれたら。
辛いことを辛いと気づくことができたら。
何か変わるだろうか。
どうしようもないことも、全て壊してしまえたら。
そんな勇気はない。
まっすぐな関係だけ築きたいと思うのに、損得を考えてしまったり。
夢を追いたくて勉強しているのに、現実の収入や世間体を見てしまったり。
矛盾だらけだ。
でも、やっぱり人との関係性だけは、損得なんかで考えたくない。わたしはメリットやデメリットで言い表せるような、そんな人付き合いはしたくないのである。
一緒にご飯を食べたり、どこかに出かけたり。そんな風に、好きな友達と一緒に時間を共有して笑い合う時間が好き。この人と仲良くしていれば何かいいことがあるかも、とか、なんだよそれって思う。どうしてもそういう発想は持ちたくない。
もしかしたら、わたしも無意識のうちに誰かを傷つけるようなことをしてしまってるのかもしれないけど。この気持ちだけは、この先何があっても大切にしていきたいと思う。
大人になんてなりたくない。
素直に、もっとシンプルに、好きに生きてみたい。
けど、大人になるしかなくて。
そんな矛盾を、ずっとずっと抱えている。
自分の軸がぶれぶれなわたしは、まだどこに到達するかわからない。いつかこの「でも、だって、なのに、けど」を乗り越えて、この矛盾した気持ちに何か答えを出したいと思う。
今はまだ迷走しているけど、辿り着くところがわかった時、また少し何か変われる気がしている。
進む道だけは間違えないように、今のこの気持ちをここに記してみた。
大人にならなきゃいけないけど、まだ子どもでいたい。そう思えるのはいつまでなんだろう。
・人生の選択の時に振り返る軸を持つべき。
・チームでの立ち回りは微妙で中間的なものにしない。
1年前ぐらいに、インターンのフィードバックでチームの子が言ってくれたこと、いまだに乗り越えられていなくて、本当に突き刺さっている。
矛盾なんてなくなるぐらい、しっかりした軸を持てるように。もっともっと愚直に努力しなきゃ。
大学生のみなさん、大変なこともいろいろあるけど、お互いがんばりましょう。
「自分で選択する」ということ
就職活動を終えて、思ったこと、感じたことを書いていきたいと思ったのだけれど、全然うまくまとめられないことに気づいたので、思いつくままに少しずつ綴っていこうと思う。
ちなみに今回書くことは、ハリーポッターシリーズを知っていて、ハリーポッター、ヴォルデモート、ダンブルドアの関係性がそれなりにわかる人にしか通じないかもしれない。それなりに伝わるといいなあ。
就活に区切りをつけた今、わたしは、ハリーポッターと秘密の部屋で、アルバス・ダンブルドアがハリーに言ったことの意味が、やっとわかるようになった。
引用:(https://item.rakuten.co.jp/gold-cat/10000451/)
自分が何者であるかは、もって生まれた才能で決まるのではない。
自分がどういう選択をしたか、で決まるのじゃ。
わたしはハリーポッターシリーズが大好きなのだが、ずっとこの言葉の意味がいまいちしっくりきていなかった。
これは、ハリーが宿敵であるヴォルデモートと自分が似ているということに気づいて思い悩んだ時に、ダンブルドアがハリーにかけた言葉だ。
ハリーは、たしかにヴォルデモートと同じような力を持っていたし、共通点も多い。だからこそ、自分がいつかヴォルデモートのように悪の道に走ってしまうのではないかと、ずっと悩んでいた。
しかし、ハリーにはヴォルデモートと大きく違う点がひとつあった。
それは、組み分け帽子がハリーの所属する寮を決める時、「グリフィンドールがいい」と自分で決めたことだ。
ハリーは組み分け帽子の見解だと、スリザリンにも、レイブンクローにも、ハッフルパフにもなることができた。
それでも、ハリーは「スリザリンは嫌だ」と言ったのだ。
それが、ハリーとヴォルデモートの違いだとダンブルドアは言った。
「いくらハリーがグリフィンドールを選んだところで、ハリーの中にヴォルデモートみたいになるような資質があるんだったら、そんなに変わらないんじゃない?」
安易な考えだが、わたしはずっとこんなことを思っていた。
でも、就活を終えて自分で入る企業を決めた今は、「何を選ぶか」こそ、一番その人が大事にしていることや、その人の人間性が見えるところだと思うようになった。
わたしには、自分の中にゆずれない夢がある。
それを叶えるために、自分がどんな人間になりたいか、そのために何をしなくてはいけないかを突き詰めて考えた時、たどりついたのが今の内定先だった。
自分の人生の中でその夢が叶わないという選択肢はない、というレベルの夢だからこそ、それを叶えるためにやらなきゃいけないことがいくつかあった。
最終的に、2つの企業でどちらに行くか心の底から悩んで、一時期毎日寝込んでいたし、もうこのまま現実から逃げ出したいと思ったこともあった。
それでも、夢を叶えるために必要なことを手に入れられる環境を、自分で選んだ。
それは、ざっくりいえば、自分のやりたいことができて、それなりの収入を得られて、自分を成長させられる環境のようなものだ。
だけど、それはあくまでもわたしの中で大切な考え方だっただけで、人にはもっといろいろな選択肢がある。
仕事は淡々とこなしてアフターファイブを楽しむ人生にしたいという人もいれば、どうしても自分でやり遂げたいことがあるから起業する人だっている。
元々の資質や向いていること、得意なことはそれぞれあるけど、誰にだってその選択肢を選ぶことは出来るのだ。
でも、それを選ばなかった。それは、自分が最も大事にしたいことが、選ばなかった選択肢の中からは得られないからなんだろうなあと、今は思う。
冷静に考えれば当たり前のことかもしれないけど、わたしは「選択する」ということが、ここまで重要なことだと就活が終わるまであまり気づけていなかった。
どんな大学に入るとか、何のバイトをするかとか、今日何を食べるとか、わたしたちは自然と選択を繰り返して生きている。そのちょっとした選択の中に、その人の価値観が隠れているし、いつもと違う選択をすれば、一気に違う世界が開けることだってある。
就活のような人生のターニングポイントであれば、「自分で選択する」というのはすごくこわいことだ。でも、最終的にはちゃんと自分で決めないと、逃げ道を作ってしまうとわたしは思った。
だから、自分ではっきりと選ぶということにこだわったし、それがあったからこそ、「その企業を選択する理由」を納得するまで突き詰めて考えることが出来た。
もちろん、本当にそこでよかったかどうかなんて、結局は入ってみないとわからないけど、自分で決めたことだから、誰のせいにもすることはできない。全部自分の責任だ。もし違うなあと思ったら、また新しい選択肢を探せばいいし、そうやって繰り返していくんだろうなあ。
わたしは決断することが何よりも苦手なので、どんなに辛くても考え抜くことができたのは、とても良い経験になったと思っている。
これからも、自分にとって一番大切なことは何かをしっかりと考えて、たとえどんなに小さな選択でも、大切にしていきたいなあ。
とはいえ、そんな風に気を張って毎日を過ごすのもわたしには無理なので、やりたいことをやって、大好きな人たちと一緒に過ごして、自分の愛するモノに囲まれて、いつも何かにドキドキしながら、ゆるーりと生きていきたいとおもいまーす。
そんな今日この頃です。
(もう少し面白い文章が書きたかったけど、まとまらないのが最近の悩み)
関ジャニ∞と渋谷すばるくんのこと
2018年7月8日、関ジャニ∞渋谷すばるくんのテレビ出演が終わった。
わたしはこの日を、一生忘れないと思う。
思えば、辛い時はいつも関ジャニ∞やすばるくんの歌に支えられてきた。
すばるくんが届けてくれる言葉はいつもまっすぐだった。
8年前の京セラドームで初のカウントダウンコンサート、「ONE」という特別な歌を歌ってくれた時、「手を伸ばせ!悔い残すなよ!まっすぐ生きてくれeighter!」って、すばるくんが叫んでくれたことが今でも忘れられなくて、キーンと響くギターの音がしっかりと耳に残っている。
気づけば、関ジャニ∞がバンドをしていることも、音楽に真摯に向き合っていることも、かなりメジャーなことになった。
ファンの年齢層は広がって、コンサートに行けば、家族連れやカップル、男の子2人組まで本当にいろんな人を見るようになった。
一般の人も、他のバンドやアイドルを応援している人も、有名なミュージシャンや俳優さん、アイドル、芸人さんだって、関ジャニ∞のことをこんな風に見てくれる。ただおもろいだけのアイドルじゃないって、こうやってすごく心に響くものを届けてくれる人たちなんだって知ってくれている。
関ジャニ∞に「ナントカナルサ」という楽曲を提供できたことは誇りです。
— 鮪 (@kanaboonmaguro) July 8, 2018
自分の願いや気持ちを、この手では届かないところへと、関ジャニの皆さんが何倍ものパワーにして届けてくれました。
感謝です。
これからも、関ジャニもすばるさんも応援しております!
本当にカッコ良い人たちだ。アイドルとは、バンドとはこうあるべきだと、興奮で震えながら観てました。渋谷すばるさん、最後までカッコ良くてありがとうございます。それぞれの今後の活動を引き続き応援していきます。 #関ジャム
— ピエール中野 凛として時雨 (@Pinakano) July 8, 2018
「LIFE」感動した。
— Yu Shirota(城田優)🇯🇵🇪🇸 (@U_and_YOU) July 8, 2018
「もう一切、もう一切 振り返らずに歩み続けたい まだまだ終わらないから」
明日からの関ジャニ∞、そして渋谷すばるくんに幸あれ🎉
関西のおふざけアイドルって見られがちだけど、それだけじゃないんだよって、それでは収まりきらないグループなんだよって、ずっとずっといろんな人に知ってほしかったから、うれしかった。
わたしがブログに関ジャニ∞のことを書こうと思ったのも、関ジャニ∞やすばるくんが届けてくれるものがやっぱりまっすぐで、わたしも自分が本当に思っていることを素直に書きたいと思ったからだ。
わたしが関ジャニ∞を本格的に好きになったのは、2009年のこと。
初めてライブに行った。PUZZLEコン京セラドーム、eighterにとって大事な思い出の曲の一つである「ひとつのうた」の収録があった日だった。
それまでのわたしの中での関ジャニ∞のイメージは、関西のなんかおもろいことやってる人たち。ぐらいのもの。
それぐらいの認識で、なんとなく丸山くんかっこいいなーと思いながら、誘われるままふらっと行った。
「ミセテクレーーーーー!!!」
と叫ぶすばるくんの歌声とともに、突然始まったバンドコーナー。
衝撃だった。
その時の関ジャニ∞は、ぜんぜんおもろい人たちじゃなかった。
全身全霊で音楽と向き合って、eighterに届けてくれている。
関ジャニ∞がバンドをしてることすら知らなかったわたしは、「ただのおもろい人たち」だと思ってた人たちが作り上げる世界観に一気に魅了された。愛されているeighterを見て、わたしもeighterになりたい、と心底思った。
もちろん、Jr時代から応援している人たちや、8人時代を知っている人からすれば、そんなの周知の事実だったと思う。それでも、eighterと呼ばれるファンでもなく、ジャニーズのこともそこまで詳しくない、ほぼ一般人だったわたしにとって、関ジャニ∞のイメージが覆された大きな出来事だった。
何でこんなすごいものが、こんなに心がしびれるものが、認知されないんだろう!?もっと広まればいいのに!と単純に思った。その時の関ジャニ∞の世間的なイメージは、まだまだわたしがもっていた関西のなんかおもろい人たち。ぐらいのものだったと思う。
それから8年。すばるくんのソロツアー、横山くんのトランペット、関ジャムやメトロック、いろいろあった。提供してもらえる曲も、メンバーが自ら作る曲も、演奏ももっともっとかっこよくなった。そして今では、すばるくんや関ジャニ∞がeighterにどんなに素晴らしい言葉を、音楽を届けてくれているのかが多くの人々に認識されるようになった。
それでも、やっぱりずっとすばるくんは変わっていなくて、最後に叫んでくれる言葉は、「エイターーーー!!!」だった。
私は昔、長いことあるバンドを追いかけていたが、今回の関ジャムほどファンを羨ましいと思った瞬間は無かった。
— 外道 (@16g2) July 9, 2018
全力のパフォーマンスをもって、最後に全力で名前を呼ばれるほど愛されたエイターに心の底から嫉妬する。
本当に、誇らしいことだと思う。応援していて良かったって、好きになってよかったって、心底思った。
**
ここまで、結構本気で関ジャニ∞のことを語ってきたが、これに対して衝撃を受けている人もいると思う。
今回、わたしが関ジャニ∞のファンだってことを知らない人も多く見てくれているこのブログに、あえて関ジャニ∞のことを書いたのには、理由がある。
いつのまにか、好きなものを好きだと胸を張って言えなくなった。
わたしはこんな感じで、ジャニーズが好きだ。これはわたしと中高が一緒だった人からすれば周知の事実なんだけど、わたしは高2ぐらいからそれを周りに隠すようになった。
ジャニーズが好きだと公言するメリットが、全くなかったからである。
そもそも何も考えずにジャニーズの話ばかりしていたこととか、わたし自身の他の面にもいろいろと問題はあるのだけれど、中学生の時はジャニーズが好きだっていうだけで引かれることも結構あった。
もちろん、同じグループが好きだから仲良くなれた友達もいっぱいいるんだけど、それ以上に色メガネで見られるのが辛かった。
だから、大学ではとことん隠すことにした。
一部の仲良い人には話していたし、仲良い人からいろんな人にじわじわと伝わっていたのかもしれないけど。大学3年まで軽音サークルに入ってたし、サークルの人に知られたら生きていけないと本気で思っていた。
でも、いざ話してみると、男女問わず
「好きなものを好きって言えないの辛くない?」
「何が悪いの?別に引くほどのことじゃなくない?」
と言ってくれる人が多くて、何だか拍子抜けした。
わたしが今まで守ってきたものは何だったんだろう、意外と受け入れてもらえるんだ、というのが正直な感想だった。それでもやっぱり、わたしは隠し続けた。
本当はわたしだって、言いたかった。
たとえば、関ジャニ∞のバンドが本気でかっこいいってこと。ちゃんと音楽してるってこと。西畑大吾くんっていうアイドルが最高なこと。何度話したいと思ったかわからない。
それでも、好きなものを好きだっていうのは、一度できなくなってしまうと、本当に難しいのだ。
そうやって今まで遠ざけてきたことを、わたしはあえて今回書いた。最後にいろんな思いをぶつけてくれるすばるくんや、すばるくんを笑顔で送り出す関ジャニ∞を見ていて、わたしが好きなひとたちは、そんなに周りに公言できないような恥ずかしいひとたちなの?と自分に対して本気で疑問に思ったからだ。
どんなひとやものにだって、誰かが作り上げてきた歴史があって、思いがある。だから、好きになったことをばかにしていいものなんてこの世にないはずなのだ。誰かが一生懸命支えてきたからこそ、今ここでまた別の誰かの心を掴んでいるものなのに、好きでいることを恥ずべき部分なんて1ミリもないはずなのに、わたしたちはどこか遠慮している。
もちろん、好きなものを好きだってはっきり言えている人もいっぱいいると思う。わたしはそういう人たちがずっと羨ましいと思っていたし、すごいと思ってきた。誰にどうみられるかとかではなくて、これがわたしの好きなものだって言えるのは、すごくかっこいいことだ。それができない人は意外と多い。
とはいっても、わたしもまだ勇気はないので、この記事を書いたことはTwitterやFacebookには書けないと思う。もっと、ちゃんと、自分の好きなものや好きなこと、愛してきたものにたいして自信を持てるようになりたい。飾らず、作らず、ありのままの自分で生きていけるようになりたい。
すばるくんの最後の姿を見て、わたしが感じたのはこんなことだった。好きなものに対して全力で生きる。簡単なようで、本当に難しいこと。
わたしも何かを貫いて、もっとまっすぐ生きていけるひとになりたい。
まっすぐ生きてくれって、すばるくんがいつも言っていたこと、絶対に忘れたくない。
本当に、こんな風に思わせてくれるアイドルを好きになれてよかった。今は心底そう思います。渋谷すばるくん、ありがとうございました。これからの6人の関ジャニ∞に期待しています。
純喫茶をもとめて in 新宿【珈琲西武】
新宿で、ゆっくり作業できる場所はないかなぁと探していた時に、珈琲西武に出会った。
東口を出て徒歩3分ほど進むと、メトロビルの2階と3階に入っている純喫茶だ。
私がこの時求めてたのは、
こんな環境!
(就活のために、ESを書いたり、面接対策をしたりとしっかり作業したかった)
しかも最近の私のマイブームは、Twitterで純喫茶のパフェをめぐるアカウントを眺めることだったので、できればインスタ映えするパフェがある昔ながらの純喫茶って感じのお店がいいな~ってなんとなく思っていた。
こんなものすごく贅沢な条件でも、さすが大都会新宿。
なんと、全てが揃っているお店があったのだ。それが、珈琲西武。
純喫茶といえば煙草が吸えそうだけれど、2階が喫煙席、3階が禁煙席と分かれていたので、全く問題なかった。
わたしはすっかりハマってしまって、3日間通った。
梅雨明けで猛暑になったばかりの東京。
珈琲西武はクーラーがすごく効いていて、本当に快適だった。
1日目は、有名なチョコレートパフェ。
贅沢なフルーツ!生クリーム!アイスの上にアイス!
わかってはいたけれど、まずボリュームに驚いた。
フルーツは新鮮でおいしい。
生クリームは意外とさらっとしていてしつこくない。
アイスも重たくなくて、ぺろりと食べられる。
暑い夏にはうってつけのパフェだった。
最高!
2日目は、新宿特製オムライス。
とろっとろの卵に、チーズがたっぷり入ったデミグラスソースのオムライス。
一度食べると忘れられない味!毎日でも食べたい!
ここまでチーズたっぷりのオムライスには初めて出会った。
びよーんと伸びるのがたまらないので、チーズ好きにはぜひ一度食べて欲しい一品。
3日目は、ミルクセーキ。
純喫茶といえばミルクセーキみたいなイメージが、わたしにはある。
だからこそ、最終日にはこれを飲むと決めていた。
卵と砂糖を混ぜて作った甘いミルクに、ぽとっと一粒入ったさくらんぼ。
王道のミルクセーキだけど、やっぱりしつこくない甘さですっごく美味しかった。
飲んでいる間、ちょっと子どもの頃に戻れたような、ぽわぽわした気持ちになった。
新宿のど真ん中にあるにも関わらず、平日の昼間に行っても意外とすいている。友達同士で来た女子高生からお一人様のおじさんまで、本当に幅広い客層が訪れている珈琲西武。
結構シュールな場面にも出くわして、隣では某筋トレジムのOB訪問が行われていたり、反対側では社会人が大学生に保険の勧誘をしていたりと、なかなか普段は聞かない会話が耳に入ってきて、面白かった。
西武カレーというカレーライスも有名らしいので、次訪れる際はぜひ注文してみたい。
新宿で暇をもてあましている時はぜひ、珈琲西武へ。
本日のカメラ:
今回使用したのは、iphoneアプリのHUJI CAMだ。
1998年のような気分を味わってほしいというコンセプトで作られた、フィルムカメラ風に撮影できるカメラアプリである。レトロな雰囲気の純喫茶にぴったり!
写真の右下に1998年として日付が入るのも味があって良い。(この日付は設定で変更できるので、2018年にすることも可能。)
いわゆる「写ルンです」みたいな写真が撮りたい方は、ダウンロードしてみて損はないはず。
正論ばかりじゃ生きられない
書き続けることだけはずっとしていこうって決めてたのに、最近何も書いてないなあと思ったから、これからできるだけ毎日書く習慣をつけていきたい。
人に見られる文章とか、人のために書く文章ではなくて、自分の思ったことを率直に、好きに語る場としてここを使っていきたいので、それが良いことかはわからないけど、わたしの思うことの掃き溜めのような感じで書かせてもらいます。
最近、すごくお世話になっている人に、ふと言われたことがある。
何事も期待してはいけないよってこと。
最初から期待しなければずっと安定した状態でいられる。期待したら気持ちの上下がひどくなって余計なエネルギーを使う。生産性が悪い。だから期待しないように努力すればいいって。
わたしは正論ですねって言った。
でも、それでもわたしは期待したい。別に期待して上手くいかなくても下がったりしない。それは自分でコントロールできるって。
実際そんな上手く調整できるわけなくて、落ち込んだりもする。だけど、結局どこで感情を抑制するかのポイントの差だけで、コストパフォーマンスはそんなに変わらない気がしている。
わたしはその話をしてくれた人のことをすごく尊敬しているし、大好きだし、これからもその人から学ぶことはすっごくたくさん多いと思う。本当にお世話になってる大事な人。
だけど、これだけはやっぱり思ってしまう。
その人の話すことはいつも正論だけど、やっぱり正論だけでどうにもならないこともあるんじゃないかって。
感情を抑制して、正論に則って生きる方がそりゃ楽だし正しい。だって正論だから。
その方が効率よく生きられるし、様々なことが上手くいくのかもしれない。
でも私は、その中で生まれた気持ちとか想いとかに、やっぱりちゃんと向き合っていきたいと思う。
逃げるのは簡単だ。
自分に嘘をつくのも簡単。
人間って案外単純で「自分はこうだ」って思い込むことができる。
決して無理しているとかではなくて、もはや無意識の領域で自分自身に嘘をつくことができる。
自分を守るために。
だって、その方が生きていきやすいから。
でも、そうやって嘘をついている自分にちゃんと気づかなきゃだめだ、って、私は思う。
じゃないと、自分のストレスやしんどさの根源がどこにあるかにすら気づくことができないから、いつまでも状況が改善できない。
そんなことを言ってるわたしも、比較的いつも感情を抑えてばかりなんだけど。
ちゃんと自分に正直になってみなきゃいけないなって、思った。
だってやっぱり、何にも期待しないまま生きるなんて悲しいと思ってしまう。
どうせ心のどこかでは期待してしまうんだから、それなら期待してる自分に素直でありたい。
たとえ結果が伴わなかったとしても、その時に瞬時に切り替えられるようになればいいんじゃないのかなあ。
正論は正論だけど、
やっぱり人の気持ちとか思いとか
こういうものが好きとか嫌いとか
楽しいとか嬉しいとか心地いいとか
そういうものって正論だけじゃ語りきれないよね。
って感じです。
これに共感してくれるひとも
やっぱり割り切った方がいいって思うひとも
いろいろいるんだろうけど
すくなくとも私は、正論では語りきれないような人間の複雑な感情の部分を大切にして
物事を考えたり、文章を書いたりしていきたいなあと改めて思いました。
そんな感じの日曜の夕方です。
もっともっとありのままの感情を人がさらけ出せるような、そんな環境ができればいいなあって自分自身がなかなかそうできないから、やっぱり思ってしまうな。
人間って難しいですね。その分面白くもあるけど。
それではまた。
ルミネの広告が好きで好きで仕方ない話
ルミネの広告に心を掴まれている女性はたくさんいると思うが、私もその一人だ。ルミネの広告がすきですきですきですきで、特に最近はすきが大爆発しすぎて、毎日ルミネの広告のことを考えている。
そもそもルミネって関西にないんだけど、わたしはいつルミネの広告に出会ったんだろう。
最近は東京によく行くようになって、やっとルミネというファッションビルを認識し始めた。最初ルミネを見た時は、「あの広告のビルだー!!」って感動して見事に中に入って服を買った。
地元にルミネがなくてもこんな風にどこかで見た広告に心を掴まれて、入店して商品を買うところまで行動しちゃってると思うと、広告ってやっぱりすごい。
ルミネの広告で特に好きなコピーが1つある。
「一目惚れして欲しい。会うたびに何度でも。」
(http://magazine.lumine.ne.jp/)
レインボーブリッジを、都心に向かって走る。
右手にそびえるスカイツリー。
左手には観覧車のネオン。
忙しそうに働くワイパーの先には、
東京タワーと高層マンション。
むせぶような霧の中。
無数の灯りが揺れるような光を放つ。
梅雨に澄んだこの町に、
わたしは何度でも見とれてしまう。
見慣れたはずの景色の中に、
まだ見ぬ表情は潜んでいる。
下の文章は、2012年6月1日付けの新聞広告のみに記載されたボディコピー。
鮮明な画像が見つからなかったので書いた。
私は正直、この広告のどういうところが好きかを言葉にしてしまうのは、もったいないと思っている。それぐらい、この広告に込められた力ってすごい。
まずこのコピーを読んだ時、私がすぐに思い浮かべたのは、好きな人に会っている時の自分だった。
好きな人にはずっと好きでいてほしい。飽きられたくない。
今もちゃんと好きでいてくれてるのかなって、定期的に不安になる。
女性なら誰もが持っている感情だと思う。
だから、みんな“自分磨き”をする。
おしゃれな服を買い、スキンケアをして、ダイエットをする。
見慣れたはずの景色の中に、
まだ見ぬ表情は潜んでいる。
っていうように、外見を磨くことで、
好きな人に何度も好きになってもらえるような
新しい自分が顔を出すとみんな知っている。
この行動をとる時の女性の心理を一言でまとめたのが、
「一目惚れして欲しい。会うたびに何度でも。」というコピーだと思う。
まさにこの行動の中に服を買う行為が含まれているから、無意識のうちに購買意欲に繫がる。
服という言葉を使わずとも、普段女性が言葉に出来ない思いや悩みを言語化することで、女性に共感や気づきを与え、心を捉えて行動させてしまうこのコピーって本当にすごい。
ここに女性の心を支持してる蜷川さんの写真が入ってきて、もうドンピシャに掴んでくる。
色鮮やかで、はっきりとしていて、強い意志や想いが感じられる蜷川さんの写真が、私はとても好きだ。
コピーを書いた尾形さんは、ルミネの広告についてこう話している。
尾形:今のシリーズを言葉にするならば、「刺激」と「励まし」です。想定するターゲットは、自分のセンスに確固たる自信のある人というよりは、少し迷いながら、自分に似合う物、好きになれる物を探している人。そんな人たちに蜷川さんの写真で刺激を与え、それに反応している自分の心は間違っていないという励ましを言葉で伝えていく。その2つをセットにして表現しています。刺激だけでも励ましだけでもない、その両方があるのがルミネらしさだと思っています。
-広告朝日 クリエーターインタビュー(https://adv.asahi.com/creator/11053053.html)
もう、ドンピシャだ。
私は自分に自信がない。
好きなことはあるけど、それが自分に本当に向いている事なのか、出来ることなのかと思うと、答えを迷ってしまう。
それでも、やっぱり自分の好きなものを好きだ!って胸を張って言えるようになりたいし、これがわたしに合っていることだって、確信を持てるようになりたい。
常日頃こんなことを考えている私は、ドンピシャにルミネの広告のターゲットなのではないだろうか。というか、そうだと思う。
それに、どんなに強く生きていても、誰にだって必ず弱い部分はあるから、私と同じようなことを思っている女性はたくさんいるんだと思う。だからこそ、この広告は多くの女性に支持されるのだ、きっと。
私は、広告の影響でルミネを見るとワクワクするし、立ち寄ってしまう。
それに、この広告は、“駅ビルからファッションビルに生まれ変わりたい”っていうルミネの課題解決の面だけじゃなくて、これを見たひと一人ひとりにそれぞれ思うことがあることで、誰かの心を少し軽くしたり、救ったりしている。
この広告というか、そもそも広告全般にそういう力があるとは思っているけど、それってやっぱりすごいことだ。
同じルミネの広告だと、わたしは特にこの広告に救われたなと思っている。
「誰かのためは苦しかった。自分のためは淋しかった。それでもおしゃれしたいのはなんでだ。」
(http://magazine.lumine.ne.jp/)
散るまでのわずか1週間。
満開の花を咲かせるために、
桜は一年をじっと生きている。
そんな勝手なことをいう人がいる。
桜はいつも桜なのだ。
緑の葉しげる夏も、枝に雪のせる冬も。
花は春服。
桜にとってはそれだけのこと。
東京にはこんなにも桜があったのだ。
淡紅の春を見るたび、わたしは驚く。
誰のためにそんなにも美しくなれるのか。
その答えは、桜だけが知っている。
人がおしゃれをする時は、きっと誰かのことを考えている。それは自分かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。どういう場面で、どういう風にこの服を着ようか、考えながら選んでいる。
でも、たとえば片想いの相手のために服を選ぶのは苦しい。その人に会う一瞬のためだけに、その人に一瞬でも可愛いと思われたくて。見てもらえなかったら?気づいてもらえなかったら?そう考えている時間はとても苦しい。
だからといって、自分のためだけに服を選ぶのも淋しい。ひとりだって感じてしまって、孤独になるから。
それでも、おしゃれしたいと思ってしまうもどかしさを感じたりして。
だけど、桜は違う。
誰のためでもなくひとり美しく咲いている。もしかしたら、桜にも想う人がいるのかもしれないけれど。彼女はそれを語らない。
それを見て、あんな風に美しくありたいと思ったりして。
女性って基本的に気持ちに矛盾を抱えているものだと思うのだけど、このコピーはその矛盾っていう一番言語化しにくい部分が言葉にされているとおもうし、それを桜と組み合わせているのが素晴らしいと思う。
注目されるのは春だけでも、一年中、いや、もっとずっと何年も、いつだって自分らしく、ひとりで太くまっすぐ美しく立っている桜は、女性の在りたい姿の象徴なのかもしれない。
わたしはまさにこんな矛盾を抱えて毎日を生きていた。好きな人のために頑張ろうと思うと苦しいことばっかりだし、かといって一人で立ってしっかり歩いて行こうと思うと寂しいし、それでもかっこいい大人になりたくて、なんでだろう、とか思ったりして。だけどわざわざこの気持ちやもどかしさを言語化することはなかった。
だからこそ、この広告を見た時、共感が生まれたし、こんな気持ちを抱えているのは自分だけじゃないんだって気づいて、心が救われた。
本来の目的じゃなくとも、こういう力もあるのが、広告のすごいところだし、私が広告を好きな理由の一つだ。
わたしは、ルミネの広告を通じて、自分のこういう気持ちは間違ってないんだなとか、こういう風に想っていいんだなって、元気を与えられた気がしている。
たったひとつの言葉で、嬉しかったり、切なかったりした気持ちや、その時の情景を思い出すことが出来て、一人ひとりの中で物語が作られていく。
誰かの日常の中に、1つの広告がそういう瞬間を生み出しているって、本当にすごい。
まだまだ好きな広告がたくさんあるけど、今回はここらへんで終わりにしようと思う。
関西の人はルミネなんてビル知らないだろうし、広告が目に入る機会も少ないと思うけど、とりあえず1回検索してみて。
女の子は絶対に心を掴まれます。
こんな風に人の心を掴む言葉が書けるようになりたいなーと思うはるぴーでした。
追記(2018/06/09):
ルミネの2018年夏広告が素敵すぎて、感動したので追記。
モデルは八木莉可子さん。
2018年のルミネ広告は、今を生きる女性像をデザインしているそうだ。
(http://magazine.lumine.ne.jp/)
「好きしかない恋なんて。」
なんとなくわかるようで、わからないような、ちょっと考えさせられるコピー。この解釈はきっと本当に人それぞれ違って、これを見た一人ひとりの中で何か物語が紡がれるんだろうなって、すっごく思った。
ルミネ公式サイトでは、ルミネの広告をもとに書き下ろされた、尾形真理子さんによる短編小説も公開されている。
わたしはこの中ですごくすきな一節がある。特にその中で一番響いた一文がこれだ。
幸せって自己責任なのだ。
ただ、ただその通りだと思った。
わたしの中にも、この広告のコピーや、この一文から紡がれた物語がちゃんとある。それは手放したくなくて、今はここにも書きたくないような、温かくて切ない、そういうもの。
その先には、この物語が大切だからこそ、自分を変えたいって思いがあって、やっぱり服を買うことに繋がったりする。
世の中にはたくさんの広告やコピーがあるけど、わたしは本当にルミネの広告がいちばんすきだって、改めて思った。これからもルミネの広告や、尾形真理子さんが紡ぐ言葉をずっとずっと見ていきたい。
ルミネの広告が好きな人はたくさんいると思うから、それぞれの中でどんな物語があるのか聞いてみたいなあと、ぼんやりと思っています。
いつか誰かと、そんな話が出来たらいいなあ。
想いを言葉にするということ
200字という制限を設けられたら、どうしてこうも書けなくなってしまうんだろう。
言葉を扱うのは、本当に難しい。
小学生の時、「コトバノチカラ」という題名で作文を書いた。
「もともと、言葉はまっさらなもので、使われないかぎり何色にも染まりません。でも、一度使うと、ひとりひとり違う、ひとりひとりの想いのそった色に染まっていきます。」
「コトバをもつということは、自分が自分らしく、ここに存在できるということにつながるのです」
なんでこんなことがいとも簡単に言えたんだろうと本当に思う。
原稿用紙約5枚に、素直に思ったままつらつらと書き綴ったのを覚えている。
今の私はもう、いろんなことを考えすぎてしまって、まっさらな気持ちで言葉をかけない。
つまり、小学生の私からすれば、きっと今の私は私らしくないのだ。
就活に正解はないっていうけど、じゃあなんでこんなに「これが正解」風に見せてくるのだろうか。
プレエントリーはたくさんしなければいけないのか、自己PRは3種類は用意しておくべきなのか、そんなことは誰が決めたのか。
ロジカルって何なのか。そんなことAIがやる世の中になるんじゃないのか。これから大事になってくるのは、いかに感情を持って働けるかじゃないのか。
世の中には、「なんかこれ、ズレてない?」ということが多すぎると思う。
それを感じている人はきっとたくさんいる。
そういうことを上手く言葉にして、気づきと共感を与えて、人を動かす人になりたいと心底思う。
なのに今、そんなわたしがいちばん言葉を書けない。
このもどかしさをどこにぶつければいいかもわからない。
いつのまにか、人に見せるための文章を書くことが増えた。
人がどう受け取るか、どういうものが必要とされているか、そんなことばかり考えるようになった。
もちろんそれは大切なことだし、これから先どこかに就職して働くことになれば、自分以外の人に対して自分の言葉がどう伝わるか、ひたすら考えることになるのだろう。
コミュニケーションにおいて、言葉の存在はまだまだ重要である。言葉にしなくても伝わる、なんて、そんなのよっぽどのテレパシーがないと無理だ。大多数の人にはちゃんと言葉にしないと自分の思いを理解してもらえない。
それでも、たまには自分のためだけに文章を書きたいと思うことがある。
書きたいことを好きなだけ書く。
そうすることで、頭の中が整理できるような気がしている。
みんなきっと思っているはずだ。
リクルートスーツを着ている自分は自分じゃないって。
だってスーツなんて普段着ないもん。
私服でスーツを着ている人がもしいればごめんなさい。
この状況で、自分らしくあるにはどうすればいいのか、まずそこから考え始めなければいけないのがきっと日本の就活である。
自分を強く見せるのは、きっと重要なことだけど、下手なプライドを持って何になるんだろう。何がしたいんだろう。
なんで自分の方が優秀だって見せつけたくなるんだろう。
そんなことを考えているように見られている時点で、それってコミュニケーションに失敗してない?って私は主張したい。
東京には賢いひとたちがいっぱいいるけど、だからこそ、本当にかっこよく話すひとが多いなと思った。
そんな姿を見て憧れる面もあれば、少し寂しい気もする。やっぱり私は関西人だなあと思う。
ばかみたいに見えるのかもしれないけど、感情全開で擬音語を使いまくって超絶スピードでまくしたてる関西人がやっぱり私は大好きだ。かっこよくなんて、生きれない。
こんなことを、東京で1週間生活していて考えた。
ずっとずっとどうすれば自分が伝わる言葉が書けるのか考えていて、本当に何も書くことが出来なくて、何も考えずに一旦、今の自分の思いを書いて見たらこんなはちゃめちゃなことになってしまった。
山手線も東京メトロも、渋谷のスクランブル交差点も、もう全部見慣れてしまった。
表参道での乗り換えに慣れて、千代田線を使いこなせるようになった。
いろんな人とひたすら話していたら、昔悩んでた人見知りなんて本当にどこかに消えてしまった。
もう自分はどこでも生きていけるような気すらする。
そして、平日の夜はなんだか寂しいものだなあと思うようになった。
日曜日っていうのは大切な人と過ごすためにあるんだろうと最近よく思う。
平日の夜に1人で考え事をしていると、だいたい気持ちが落ちてくるからよくない。
自分らしくいようと思うと、少なくとも周りと違う行動をするわけだから、本当にこれでいいのかなって、これが正解なのかなってわからなくなる。
もう少し自分のことを信じられるようになりたい。
周りから何を言われても、ばかにされても、私はこうやって生きる!ってちゃんと言えるようになれば、もっと見える景色も変わってくるんじゃないだろうか。
やっぱりわたしはロジカルとか定量的にとかそういうものが苦手で、こうやって定期的に感情を発散しないと生きていけない。
とりあえずいろいろあるけど、結局今の私は200字で自分を表現しないといけないフェーズに戻らなければならない。
みんなが好き勝手いろんなことを言っているけど、信頼できる人の言葉に耳を傾けつつも、ちゃんと自分を信じて、自分らしくあろう。貫くべきところでは自分を貫こう。そのために、言葉をうまく扱っていこう。
そんなことを思った。
「想いを言葉にして、人に伝える。」
生きていく中で、私たちがずっとしてきていること。
それをただ、制限をかけられたなかでうまくやるだけだ。
3回生のみなさん、そんな感じで、就活頑張りましょう。
以上、エントリーシートに苦しむはるぴーでした。