8cmのピンヒール

月を見て綺麗だねと言ったけど あなたしか見えてなかった

Produce 101 Japanにドハマりした話

今になって、Produce 101 Japan(以下、プデュ)をとてつもない勢いで見ている。
10日前、突然思い立ったように見始めて、本編も未公開も、ほかのコンテンツも好きな子が出ている部分は、すべて見終えた。

 

なぜ見始めたかというと、仲良しの友達が全員見ていたからだ。
わたしの友達が全員アイドル好きとか、趣味が合うとか、そういう感じだったら全員見ていても納得できるんだけど、わたしの友達とわたしは特に趣味は一致していないし、友達の系統も本当にバラバラ。(どんな人と仲いいの?って聞かれても本当に答えられないぐらい)

なので、自分の友達が全員プデュにハマっていることがわたしは信じられなかった。わたしはアイドルが好きなので、わたしがハマるならわかる。でも、ハマったのはわたしじゃなくてわたしの周りだった。

 

というような背景もあり、たまたま予定がなかった日曜日、突然第1話を再生してみた。そこからはもうとまらない。深夜0時に会社を出た日もあったけど、1週間でまずは本編12話、すべてを見終えた。(1話2時間半ぐらいある)

 

そもそも、プデュとはどういう番組なのかというと、簡単に言えばオーディション番組だ。もともと韓国の番組で、このオーディションで最後まで勝ち抜いたメンバーで、IZ*ONEとか、そういう今の人気グループが出来ている。掘り出すときりがないのと、わたし自身がミーハーでそこまで詳しくないのでここでは割愛する。

日本版でも、101人のデビュー候補者(練習生と呼ばれている)が集められ、課題曲が与えられて、歌とダンスのパフォーマンスをする。そのパフォーマンスを見た会場の観覧の人が会場投票を行ったり、その放送を見た一般の人がスマホで投票を行ったりして、練習生には票が集められていく。その票数で練習生は順位付けされ、最終的に勝ち残った11位までの人がデビューできるという仕組みだ。

練習生たちはすべて一般人。もともと事務所に所属して芸能活動をしていた人もそこを辞めて、このオーディションに参加している。それぞれ様々な想いを持って、本気でこのオーディションに挑む姿をみたわたしは、

 

結論からいうと、毎回全て泣きながら見た。

 

わたしは誰かが頑張っている姿を見るのがとても好きだ。夢を追いかけている人のことを応援するのが好きだ。その過程にいる人を見ると、自分も頑張ろうと思えるからだ。

プデュはまさに人が夢を見て、その夢を叶えるために必死でもがく姿から、夢をつかむまでの姿(もしくは夢を失う姿)まで、すべてを描いた番組だった。

 

最近どこかで、夢を持っていても、その夢を目標として達成するところまで叶えられない人についての話を読んだ。夢を見続けて行動にうつさないということは、その夢を叶える自分の可能性をある意味ずっと信じていられるということらしい。わたしはまさにこんな感じのたちで、ろくに夢を叶えられたことがない。いつも中途半端な自分に嫌気がさすけど、わたしは夢を追いかけたときときに結局叶えられなかった自分を見るのがきっと心の底から怖くて、自分に幻滅したくないんだろうなって、よく思っている。

 

でも、プデュの練習生たちは違う。自分の目の前の夢をつかむために、全力で努力している。その過程で落ちていくひともいるけど、もがいてあがいて、必死で挑戦する姿はひたすら美しい。

 

このプデュ日本版には、テーマソングのようなものがある。『ツカメ 〜It's Coming〜』という歌だ。

 

練習生たちは第一話で、自分たちで考えたパフォーマンスをして、歌やダンス、態度やキャラなどの総合評価で、Aクラス〜Fクラスまで審査員にレベル分けされるのだけれど、そのあと、再度クラス分けのチャンスを与えられるという過程がある。

その時に課題曲となるのがこの『ツカメ 〜It's Coming〜』だ。

 

この曲で、番組の顔となるMVのようなものが作られ、上位クラスであればあるほど、ステージの真ん中の目立つ位置で踊ることができる。踊る時間も長く、必然的に画面に映る時間も長い。Fクラスになれば、もはやステージの上で踊ることができないうえに、踊る時間も短い。

今後、国民プロデューサーと呼ばれる画面の前のファンの人々からの票を多く集めるためには、ここでどれだけ映る位置で踊れるかということも、おのずとカギとなってくる。

 

そのため、練習生たちはみんな必死だ。寝る時間も削って、体力の限界まで、この曲の振り付けを覚え、歌詞を覚え、身体に染み込ませる。結果として、クラスが上がることが決まって手を挙げて大喜びする人もいれば、下がってしまって涙を流す人もいる。

本番で振り付けが全て飛んでしまった石井健太郎くんという練習生の子が「本当にここまで頑張ったことってないです 人生で」と言っていた姿は印象的だった。

 

この曲は第一話以降も、ことあるごとに延々と流れ続ける。いわゆる「エモい」シーンではピアノバージョンまで流れる。プデュを見続けていると、頭の中から離れなくなるまさにテーマソング。

 

このテーマソングの歌詞がまた、とんでもなく心に響くのだ。

 

この曲には「僕をtopへ連れて行って」という歌詞もあり、ファンに向けて僕を選んで、と訴えかけるような曲なのだけど、わたしはこの歌詞が特に突き刺さった。

 

いつまでも夢を見てる

お願いそう言って笑わないで?

この道の続き見えるでしょう君も

希望に染まった

 

ヒーローになりたくて

強さも願ったあの日の気持ち

忘れられるわけないよ

可能性があるのなら

 

夢を見る人はどこか馬鹿にされることが多い。その夢が大きければ大きいほどなおさらだ。そんなのできるわけない、とか、いつまで夢見てんの?とか、年齢が上がれば上がるほど、言われがちである。

 

でもこの歌詞は、そんな風に批判してくる人のことを拒絶するわけでもなく、ただ、ただ、自分の目の前の夢に向かって切実な想いを抱き、必死にもがいている人の姿を描いている。

プデュで描かれる練習生の姿はまさにそのようなものだ。まだ夢を見始めたばかりの少年から、これまでいろいろなキャリアを積んできたけど夢を諦めきれなかった青年まで、いろいろな立場の子たちが、ただひとつの夢に向かって一生懸命突き進んでいく姿を見られるのがこの番組だ。

 

多くの人がそうであるように、わたし自身、夢を追いかけて諦めたり、その先で新しい夢を持ったりした経験がやはりあるので、この歌詞は突き刺さる。

 

この曲を聴いていると、たとえどんな大きな夢でもそれを目標に変えて、頑張ろう、って思える。だから聴けば聴くほど、プデュを見れば見るほど、わたしはこの歌が好きになった。

 

 

最終的に上位11人に選ばれた練習生は、3月にJO1というグループでデビューする。すでにデビューに向けてのプロモーション活動が始まっており、ファンミーティングも開催した。

 

惜しくも11人に選ばれなかった練習生も、それぞれの場所で様々な活躍を遂げようとしている。

 

一般人だった彼らがこれからどのように輝いていくのか、その姿を見るのがわたし自身すごく楽しみだし、ハマりたてのミーハーな身だけど、まだまだこのコンテンツをこれからも存分に楽しませてもらいたいと思う。むしろこのタイミングでハマれてよかった!CD買う!

 

そしてわたし自身、夢を見ることを諦めたくないなって、自分が心惹かれるものを無視することはできないなって、改めて思わされる良い機会だった。

 

4月からまた怒涛のような日々が始まるけど、1日1日を大切に、やりたいことをやって、わたしもわたしがなりたい自分になれるように、努力を重ねていきたいと思う。

 

すべてのモチベーションが下がり気味だったこのタイミングで、Produce 101 Japanに出会えて本当によかった!

 

プデュの話を延々とし続けてくれたわたしの友達たち、ありがとう!おかげさまで今がすごく楽しいです!

 

GYAO!での配信終了までもう期間も少ない。本編もう1周できるように頑張る!うっすら興味あるけどまだ見てないという方は、ぜひ一度観てみてください!

 

幸せになりたいという究極論

毎日楽しく仕事をして、美味しいご飯を食べて、好きな人と過ごす。休みの日は映画を見て、お気に入りのカフェでコーヒーを飲んで、夜には音楽を聴きにライブに行く。そんな日々がずっと続けばいい。

 

働くことは、幸せなことか?と聞かれると、なかなか「はい」と明言できないわたしがいる。どんなに大好きな仕事でも、仕事仕事仕事、仕事仕事って詰め込みすぎると、身体は勝手に壊れていくことを知った。

残業時間が増えるたびに、パソコンの画面を見ているだけで勝手に涙が出るようになった。頭痛がとれなくて、本当にしんでしまうんじゃないかって不安になることもあった。それでも、わたしがやらなければ、別の誰かが苦しむことになる、と思うと、わたしにできることは全てやろうと思った。

 

とはいえ、そんな生活はずっとは続けられない。毎日毎日原因不明の蕁麻疹がとまらなかったけど、少し早く帰る生活を2週間続けたら出なくなった。11月から止まらなかった心臓の動機が、やっと治まった。

わたしが弱すぎるだけだから、もっと強くならなきゃいけない、と思う反面、具体的に何をしていくかということまで、まだ頭が回らないわたしがいる。

 

一分一秒でも早く帰りたいから、目の前の仕事をすぐにでも終わらせたくて、ただでさえ人見知りで話せないのに、よけいに周りと話さなくなった。

本当はもっと好き勝手に話したいのに、いまだに自分を出すことができない。わたしは自分で思っていたよりも関西人だった。標準語を話している自分は自分じゃないみたいで気持ち悪いし、日常のちょっとした瞬間に笑いを求めてしまう。でもそんな自分は、東京に来てから微塵も出していない。

 

幸せってなんなんだろうって思う。「何かを選ぶということは、何かを捨てるってことだからね」って言われて、余計にわからなくなった。

それはもしかしたら当たり前のことなのかもしれない。でもわたしは、仕事も恋愛も友達も趣味も全部欲しい。そう思ってしまうのは、わたしがまだ人生の厳しさとかそういうものを、本気で知らないからだろうか。

 

わたしは「仕事に人生を懸ける」って言い切ることはできない。いつか結婚もしたいし、子どもも欲しい。だけど、好きな仕事もしていたい。こんなことを思っていたら、甘く見るなよって、言われてしまうだろうか。

正解はわからないし、もはや正解なんてどこにもないんだと思う。大切にするものの基準は人それぞれで、なにが正しいとか間違ってるとか、そういう答えを出すことはできない。

わたしは、今はただ、幸せになりたい、と思う。わたしの幸せは何なのか、自分でもまだ模索中だけど、好きなことだけをして、好きなものだけに触れて、好きな人だけに囲まれて、健康的な生活をして生きていきたい。

 

その過程でどんなものが必要なのか、今なにをすべきなのかは、あとで考えることにしよう。まずは、幸せになりたいという究極論。これを掲げて、なにを選択すれば自分か幸せになれるかを考えて生きていこうと思う。

 

それはきっと自己防衛でもあり、身体的にも精神的にも、健康に生活するための術でもある気がする。

 

答えのない答えを探してわたしは今日も、まだ慣れない東京の街で、生きていく。

22歳

22歳の時に考えていたこと。溜めたままになっていた下書きを、23歳もあと2ヶ月半で終わる今、公開してみたくなった。ちょうど1年ぐらいのラグがあるけど、あえて、このタイミングで公開してみる。

 

読んでいると、この時にしか書けなかったこと、この時にしか抱けなかった感情が確かにあるから、想いはできるだけ言葉にして残していきたいと思った。

 

ここ数年のわたしのテーマはずっと「大人になるということ」。大人になるのも悪くないけど、やっぱり少し寂しくも感じる。荒削りな過去の自分が教えてくれた、忘れてはいけない気持ちをここに。

 

**

 

22歳って、絶妙な年齢だと思う。大人と子どもの狭間ってこういう時期のことをいうんだろう。まだまだ子どもでいたいけど、大人にならなきゃいけないし、見たくないものも少しずつ見え始める。今のこの感覚を忘れたくないなあ、社会人になっても忘れずにいられるのかなあ、と最近よく思う。

 

わたしの2018年上半期は、ほとんど大人との付き合いで埋められていた。インターンに行ったり、本選考を受けたり、OB訪問したり。わたしは結構本気で就活を頑張っていたので、ひたすら大人と話した半年間だった。
正直なところ、良くも悪くもいろいろな大人に会った気がしている。目の前の人の言葉をまっすぐに受け取れるほど純粋な子でいられればいいのだが、あいにく私はそうじゃないし、そうじゃないにもかかわらず純粋でいられないことを悲しんでるタイプの人間なので、いろいろなギャップに苦しむことになった。

相手が受け取る自分が自分の全て。それはもちろんその通りなのだけれど。キレイゴトで塗り固めて自分を演出するのも、思ってもいないことをペラペラと話して息をするように嘘を吐く大人にあいづちを打つのも、いつのまにか嫌になっていた。

就活終盤戦は、自分のやりたいことも、なりたい姿も何も分からなくて、ちょっとしたこだわりにすがっていた。納得いく答えを出すまではすごく時間がかかった。結局、わたしがもっと弱かった時からずっと見てくれていて、成長を見守ってくれて、面接でも最後まで素で話せた企業がわたしの内定先だ。ものすごく紆余曲折したけど、これでよかった。と、入社してみなければ本当のところはわからないけど、今はこう思えている。

 

そして、2018年下半期。就活も落ち着いて(結局12月末までどうするか悩んでたけど)、久しぶりに受けた授業は夏季集中講義。夏休みに4日授業に出るだけで2単位くれる、なんとも魅力的な講義である。

わたしは大学に友達が全然いないので、夏季集中講義もさくっと一人で受けた。グループワークもあったけど、自分が何回生かは最終日まで明かさなかった。ゼミにも後輩はいないし、サークルは3回生の秋にやめてしまったし、本当に久々の後輩との交流。就活で心が荒み切ったわたしからすれば、一番多かった2回生は特に本当にキラキラ輝いて見えた...。あれ、わたしもこんな感じの大学生だったのかな...。就活ってこわいなあ...。とか思っていたのがこの時期である。
その講義の3日後から新しくバイトを始めて、当たり前だけど同期も年下ばかりでわたしはそのキラキラにひたすら圧倒された。みんなほんとにかわいかった。

 

そうやっていろんな年代のひとたちと接する機会をもらって、自分の今までのことを振り返ることもよくあった。18歳と20歳はたいして変わらなかったけど、20歳と22歳は全然違うなあと思ったり。そんな風に、22歳と24歳も違うのかなあって未来に思いを馳せたりした。

人との付き合い方とか、距離感の保ち方とか、自分の見せ方とか、大人になるにつれてそういうことを少しずつ身に着けるようになったり、考える機会が増えたりするんだろう。そしてうまく立ち回れる人や面白みのある人が出世コースにのって、真面目な人は淘汰されていく。世の中がそんな風にできてるのかもしれないって、思いたくないなあ、気づきたくないなあ、なんて考えながらも、少しずつ計算して生きるようになり始めている。

そんな自分が悲しくなる反面、就活の荒波を潜り抜けて、わたしは良い意味で本当に大きく変わることが出来た。だからこそ、それをふまえた22歳の今、こんな風に感じるのかもしれないって思うこともあるのだ。就活については思うことがたくさんあるから、また別の機会にでも書きたい。

 

わたしは、あと1ヶ月で23歳を迎える。23歳のわたしは、どんな風に笑って、どんなことで泣いて生きているんだろう。平坦な毎日を送るよりは、少しぐらい感情に起伏がある方がいい。信頼できる友達はそばにいるのだろうか。仕事は頑張れているだろうか。

この先の未来のことは、正直全く想像がつかない。どんな気持ちを持って、どんな風に生きているのかもわからない。ただ、わたしはわたしで在れたらいいなあと思う。来年の今頃は、きっと東京で暮らしていて、新しい家に引っ越すぐらいの時期だ。初めて住む大都会東京。良くも悪くも、あの街にどれぐらい私は馴染めているのだろうか。

 

言ってしまえば、本当はこのまま何も変わりたくない。狭くて深くてぬるま湯みたいな人間関係にずっと浸かっていたい。見慣れた街で、大好きな人たちと過ごして、働きたい場所で働いて。でも、それじゃダメなのだ。今のままの自分じゃダメだってちゃんとわかってるから、わたしは大阪を離れることに決めた。

逃げずにきちんと一人で乗り越えなきゃいけないことが、まだまだたくさんある。

 

23歳は大人になって、もっともっと強くなりたい。そして東京の街で、胸を張って生きていたいと思う。

大人になるということは、

大人になんてなりたくないってずっとずっと足掻いていたのに、いつのまにかすっかり大人になっている自分に気づく。

息をするように嘘を吐く大人が全然好きじゃなかった。人に冷たい態度をとる人が理解できなかった。でも、自分を守るためにはそういうことをしないといけないときもあるんだよ、って教えられることが増えた。

 

相変わらずどういう風に立ち回ったらいいかなんてわからない。不器用だから目の前のことを追うことしかできなくて。自分のことめちゃめちゃ誤解されてるだろーなー!そんな性格じゃないのになー!ってよく思うけど、とにかくいっぱいいっぱいだからそこを訂正してる暇もないまま。

 

社会人って大変だー!!って思う。

 

でも、その反面、好きなことを仕事にするということは恐ろしく楽しい。消耗するし、泣きたくなるようなこともあるし、はやく帰れる人たちが羨ましいときもあるけど、この仕事が好きって気持ちと、今の仕事を起点にして将来的に夢見ていることがぼんやりとでもあるってことは、すっごく幸せなことだと思う。

どんなに忙しくてもやりたいことを仕事にしたいって気持ちは、自分のなかで軸としていて、たぶんそれで間違ってなかった。まあ早死にしそうだけど(笑)

 

あの日見た夢はもう夢じゃないってわたしの好きな歌手は歌うけど本当にそうで、社会人になってから、夢が目標になった。自分の好きなものを好きだって明言して良い環境ができた。それだけでも、十分だ。

 

相変わらずわたしは一人じゃ何もできなくて、いっぱいいっぱいだけど。そろそろ本格的に独り立ちさせられることが目に見えていて怖い。それでも、やるしかないし、やりたくてやってることだから、頑張るしかない。いつかやりたいこと、あるし。

 

とりあえず今は前を向いて、前進あるのみ。

 

去年のわたしへ

怖がらなくても仕事はめちゃめちゃ楽しいよ。夢が目標に変わるよ。たくさんの大好きな会社の同期や先輩に出会えるよ。学生の時よりずっと充実してるよ。

ただ、1年目の春、もっと毎日定時で帰りなね。帰れるのは今だけだよ。

 

はー!!あしたもがんばろー!!!

平成最後の夏だった。#就活 #夢 #恋 #東京

こんなにも暑くなるまで、リクルートスーツを着ているとは思わなかった。
理想が高いと言われてしまえばそれまでかもしれないが、まだ続けることもできるのに、諦めたくなかった。いつかあの場所で働くために、せめてちゃんとキャリアを詰めるところで。夢を追いかけるということは、孤独で、苦しくつらいものだ。

何でもかんでも平成最後とつけるのは好きじゃない。安易に使い続けることで、言葉の価値はだんだん下がっていく。初めて平成最後の○○と聞いたときは、結構エモい気持ちにもなったのに、今なんとも思わないのは、それほど世の中にこの言葉が溢れてしまったということだろう。言葉は大量に消費されることで、時に価値を失う。

それでもやっぱり、“平成最後の夏”だけは、わたしにとって強く濃く心に残り続けている。
全てに絶望して、どこまでも一人で、当時好きだった人には怒られてばかりで、東京は怖い街だと思った。

息をするように嘘を吐く大人にたくさん出会って、社会人のことが誰も信じられなくなった。「そういうもんだよ」って言われても受け入れらんないし。てかそもそも、この微妙に膜を張ったような人間関係の築き方はなんなの?そんなことをひたすら思っていたら、どうすればいいかわからなくなった。

追いつめられて迷走しても、そこから得られるものは何もない。
話せることがないからって自分を偽ったところで、良いことはない。
本当にそのままの自分で、いつも通り話せばいい。
就活を終えた今だからこそ、あの頃の自分にはこういうことを言いたくなる。

 

とにかく、広告の仕事がしたい。
いつのまにか、そんな風に思うようになっていた。

それじゃだめだってわかっていたはずなのに。

何を言えば通りやすいかとか、どう見せることが大事かとか、何がこの会社の人にウケがいいかとか、そんなことをしたってミスマッチが起こるだけだって頭では理解していた。それでも、追いつめられると人はどこかおかしくなるらしい。いつのまにか相手に合わせることばかり考えるようになった。

 

だから、わたしはあんなことを口走ってしまったんだと思う。

某広告代理店の最終面接。
「やりたいことはなんですか?」
そう聞いてきた面接官に向かって、私は堂々と「まだ決まっていない」と言った。

やりたいことがあるからその会社を受けて、広告業界ばかり受けていたのに。
コピーライターになりたくて、広告が作りたくて、いろんな人に会いに行って、東京という慣れない土地を永遠に走り回っていたのに。

大迷走して、わからなくなって、手元にある内定先に絶望して、就活を続けて、季節も過ぎた。初めて来たのは寒い雪の日だったはずなのに、いつのまにかじめじめとした暑い夏になっていた。

そんな調子で面接を受けたところで何もうまくいかなくて、当時好きだった人には怒られてばかりで、ただただ泣きたかった。泣くことすらもできなかった。

それでも、どこまでも続く孤独と永遠に戦って、必死で夢を追いかけた。
結局のところ、わたしの気持ちはわたしにしかわからない。

迷走に迷走を重ねたのち、本当にこの会社にちゃんと就職しようって決めることができたのは、卒業直前、大学4年もあと2ヶ月で終わる1月だった。ゼミの先生にも相談していたし、20卒のインターンにだって行った。それぐらい、本気で迷っていた。

 

4月。
東京に引っ越してきた。あれほど夢見てた生活が現実となった。
途端に、大阪に帰りたくなった。 寂しさが押し寄せてきた。

わたしに広告のイロハを教えてくれた人とは連絡が取れなくなった。
でも、「営業より制作向きだと思う。制作会社受けないの?」って言ってくれたあの人の言葉は、たぶんものすごく的を得てた。制作会社は受けなかったけど、今の会社で、わたしは売る人じゃなくて作る人になった。営業職だと思い込んでたからちょっとびっくりしたけど、好きなことが仕事になる幸せを毎日噛みしめている。結局のところ、今の仕事が好きだから、やっぱり大阪には帰りたくない。

消費財とか、化粧品、映画の広告が作りたいって思うのは、きっと全てあの人の影響だ。
わたしもあの人の中に、少しでも何か残せただろうか。
もうわたしのことなんて忘れてるんだろうけど、わたしはきっと忘れることはないんだろうな、なんて思ったりした。 

消費財メーカーのコピーライターの先輩と話したとき、
「諦めなければ、何かしらの形で絶対夢は叶うよ。努力は報われるよ。」
と言ってくださったのを、今でも覚えている。

その先輩は、ある広告代理店にどうしても入りたくて、飛び込みで何十枚も自分の名刺を配って、OB訪問をしていたらしい。それほどの熱意があっても、やはり広告代理店の壁は高く、入れなかったそうだ。

とある会社に一目惚れして、広告の世界を追いかけ続けて、最終落ちを繰り返したわたしにとって、自分と境遇の似ている就活生だった先輩の言葉は、すごく心に響いた。

うまくいかなくて、心が折れそうになることもあったけど、努力は必ずしも報われるわけじゃないってわかってたけど、それでも、頑張ってよかったって思える今があって幸せ。やりたい仕事につけたこと、会社の人がみんな大好きなこと、あまりにも恵まれすぎている。

 

f:id:harunrun84:20190430020659j:plain


ルミネの2019年春広告。「わたしの夢を奪うわたしになるな」
わたしは、ちゃんと自分の望む自分に近づけているかな。
自分の嫌なところはたくさんあるけど、それも全部受け入れて、ありのままの自分をちゃんと大事にしたい。最近は、そう思うようになった。

自分には無理そうとか、できなさそうとか、そんな風に諦めるようなわたしではいたくない。わたしはわたしの夢を、自分の力できちんと手に入れたいのだ。

 

就活と夢と恋と、東京。
すべてを全力で追いかけた。平成最後の夏だった。

 

令和は、東京でちゃんと笑えるわたしになりました。
千代田線にはもう乗らない。元気ですか?って言いたいけど、言わないでおくね。
いつかまたあの人に会えたら、すっかり広告の人になったねって言われたい。
強くなったねって、認めてもらいたいと思う。

明日も仕事です。
Googleマップに頼らなくても、一人で歩けるようになってきたから。
1年前の今頃、泣きながらESを書いて怒られてたこと、きっと忘れない。
お箸の持ち方さえ間違えてたわたしに、正しいことを教えてくれてありがとう。

 

令和最初の春。
ひたむきに、まっすぐに、努力しようと思います。

獣になれない私たちが心に突き刺さる話【新垣結衣】

1月21日、日テレ系2018年10月期水曜ドラマ、「獣になれない私たち」(略してけもなれ)が、ギャラクシー2018年12月度月間賞を受賞したことが発表された。
これは、日本の放送文化の質的な向上を願って、テレビやラジオ番組、その関係者に贈られる賞らしい。

 

f:id:harunrun84:20190124141603j:plain

引用:https://www.ntv.co.jp/kemonare/

 

2018年下半期の私は、「獣になれない私たち」を見て、毎週ボロボロ泣いていた。賛否両論あるドラマだったが、わたしは本当に大好きで、放送期間中毎日のように「けもなれ」「けもなれ」「けもなれ」と連呼していた気がする。

「獣になれない私たち」は、本音と本能にフタをして生きる大人たちのラブかもしれないストーリー。登場人物全員が言いたくても言えない、どうしようもない気持ちを抱えながら、現実と向き合って一生懸命人との関係を作っていくドラマである。

恋人との関係や職場での立ち位置など、生きていれば避けられない『人生の苦味』を、クラフトビールの雑味のように味わおうとするドラマだった。新垣結衣松田龍平田中圭黒木華らが演じたキャラクターたちも、性格だけでなく、立ち位置で変わる見え方まで含めて多面的に描かれていて魅力的だ。

引用:ORICON NEWS

これがギャラクシー賞の受賞理由だそうだ。この評価を書いた人が天才なのではないかと思うぐらい、「獣になれない私たち」の魅力を的確に表した評価である。
「こんなかわいそうなガッキー見たくない」とか「好きになれる登場人物がいない」とかめちゃめちゃ言われていたけれど、わたしたちが向き合いたくない現実の嫌な部分を見事に描いていたドラマだったとわたしは思う。

 

あいみょんが歌う主題歌、「今夜このまま」もめちゃめちゃ合っていた。

苦いようで甘いようなこの泡に
くぐらせる想いが弾ける
体は言う事を聞かない
「行かないで」って
走って行ければいいのに

広いようで狭いようなこの場所は
言いたい事も喉に詰まる
体が帰りたいと嘆く
「行かないで」って
叫んでくれる人がいればなぁ

抜け出せない 抜けきれない
よくある話じゃ終われない
簡単に冷める気もないから
とりあえずアレ下さい

とまあ、こんな感じの歌詞なわけだけれども、本当にあいみょんも天才なんじゃないだろうか。わたしはこの歌にもドはまりしてしまって、ドラマ放送中は毎日よく飽きないねと言われるぐらいずっと聞いていた。

何が言いたいかというと、現代を生きるわたしたちには言えないことが多すぎるのである。もっと本能のままに、好きなものを好きだと言って、欲しいものは欲しいと言って、嫌なことは嫌だといえたらどんなにいいか。そんなことを考えながら日々生きている人が多い世の中だから、こんなドラマが生まれるのだろう。

勇気を出して本音を言ってみても、結局上手くは行かない。それならそもそも言わなければ、ニコニコ笑っていれば、幸せっぽく見えるんじゃないか。自分が不幸せだと思いたくないし、他人にそんな風に思われたくない。よく考えたらそこまで不自由なわけでもないし、自分より不幸な人なんてきっともっといるはずなのに、弱音なんて吐いちゃだめだよね?
そんな風に思って生きている人は、一体どれぐらいいるんだろう。

 

特に、新垣結衣演じる主人公・深海晶が「幸せなら手をたたこう」を歌いながら、淡々と仕事をこなしていくシーンは話題となった。

thetv.jp

ECサイトの制作会社で働いている深海晶(新垣結衣)は、仕事が出来すぎるタイプだ。出来すぎるが故に、営業企画で入社したはずなのに、いつのまにか社長秘書業務から教育担当、クライアントへのプレゼン、後輩のミスのカバーまで全てを任されてしまう。

エンジニアの方への気遣いも忘れず、営業のミスで深夜残業が発生した時には、自腹でおにぎりやお茶も買いに行く晶。もちろん、みんなから信頼されてはいるが、それでも社長の怒号は飛び交い、毎日届く鬼のようなLINEに忙殺される始末。

そんな状況の中、恋人の京谷(田中圭)は元カノである朱里(黒木華)を家に居候させ続けている上に、呉羽(菊地凛子)と浮気をしてしまった。

「幸せでキラキラしてる人は違うね~いつまでも無職で何もしない私とは違うよね」
「あなたが持ってる色んなもの、私持ってない。あんたみたいな人大嫌い!」

晶は、朱里と対面した際、こんな言葉を浴びせられた。
こんな晶の苦しい状況が描写された第5話。追いつめられた晶が、「幸せなら手をたたこう」を歌いながら笑顔で淡々と仕事をこなすシーンが数分にわたって続いた。

もちろん、わたしもこのシーンを見ていたが、ただただ恐怖だった。それと同時に、追いつめられるとこうなってしまう気持ちも、少しわかる気がした。
本当に本当に心から辛いとき、人は笑うことしかできない。辛さを自分で自覚することができない。無意識のうちに涙が出てきたらそれはきっと心が限界ってことだ。

 

個人的には、印象に残った回がもう1話ある。
弱った晶と恒星(松田龍平)が一夜を共にしてしまう第9話だ。

第9話で、晶と朱里はこんな会話を交わしている。

晶「恋愛はしばらくいい。相手にすがって、嫌われないように振舞って、嫌だ」

朱里「じゃあ、ずっと一人で生きていくの?」

晶「一人なのかな?今は二人。私と朱里さん。さっきは三人でビールを飲んだ。会社の同僚と一緒のことで喜んで、女同士で千回のハグ。この前は飲み友達と朝までゲームをした。そういう一つ一つを大事にしていったら、生きていけるんじゃないかな?一人じゃない。じゃないかな?」

様々なブログや考察記事を読んでいると、これが現代の女性の価値観であると称賛されている。実際、わたし自身これには共感する部分があるし、その考察もとてもわかるんだけど。わたしは、この後晶と恒星が一夜を共にしてしまう流れが、この価値観への最終的な答えなんじゃないかと思っている。

お互いに傷ついていた晶と恒星。恒星は晶との関係を特別に思っていて、「性別関係なく人間同士でいられるって貴重じゃない?壊すには惜しい」と言っていたけど、結局こうやって男女の関係になってしまい、最終的には恋人になった。

やっぱり人は限りなく一人で、同僚と喜んでも女同士で千回のハグをしても埋められないものがある。だからこうやって、弱っているときに支えてくれる人をどこかで求めてしまうんだろう。

もちろん一人でも生きていけるぐらい強くなろうってわたしだって思っているし、一人じゃないって思って生きていきたいけど、やっぱりそんなにうまくはいかない。

もしかしたら、最初に引用した晶の考えが正しいのかもしれないし、傷ついた晶と恒星が選択した行動も悪いことではないのかもしれない。お互いに全力で愛し合えている恋人がいれば、もはや弱ることもないのかもしれない。何が正解かなんてわからないけど、結局何が正しかったんだろうって考えさせられるような、そんな答えを探す隙を作ってくれているのがこのドラマの面白いところだ。

わたしたちが心の中に抱えているモヤモヤや矛盾を5tapとクラフトビールを通じて、ちょっとおしゃれに非日常的に描いたドラマ。それが、「獣になれない私たち」なのではないだろうか。

社会人1年目。もっと本格的に業務が始まって、日々の仕事に追われるようになったら、わたしもまたこのドラマに救われる日がくるのかもしれない。本当に何度でも見たい久々の神ドラマだった。Huluで配信されているので、見てなかった人はぜひ。

www.happyon.jp

 

 

言わなかったことに真実がある

f:id:harunrun84:20190327191706j:image

言えなかったこと、言わなかったこと。感情の余白。そういうものにこそよっぽど真実があるのかもしれないということに、気づいてしまった。

そのような、人々が言葉にしない心の隙間みたいな本音を救いあげて言葉を紡ぐことこそ、文章を書く人のやるべきことなんだろう。

でも、それはなんだか逃げることのような気がした。

感情を言語化すると、少なからず人は楽になる。たとえば、別れた彼氏への気持ちを紙に書いて破り捨てて吹っ切るという人は意外と多い。

それをしてしまえば楽なことはわかっている。どんなにしんどいことも、言語化すれば美談で終わらせられる。誰かが共感してくれて、自分の心も救われる。ただ、本当にそれでいいのだろうか。

 

複雑に絡み合ったいろいろな思いがあって、簡単には言葉で表せないような、大事な大事な気持ちを、言語化してしまうのはどこかもったいない気がした。

言えなかったことやあえて言わなかったこと、書かなかったことやあえて書けなかったことの方に、真実がある気がした。

 

だから、しばらく書くことを辞めていた。

このブログはブログというか、わたしの感情整理のために使っていることの方が多かったので、その余白を言語化しないことを意識すると、何も書けなくなってしまったのだ。

もちろん、SEO対策をして、有益なカフェ情報とか面白いネタの記事を書く方が“ブログっぽい”気がするし、世の中的にも需要はある気がする。

けどわたしがしたいことは、そういうことじゃないんだろうなあと同時に思う。

多くの人に文章を読んでもらいたいし、数字として目に見えた結果が出るのは嬉しいけど、少なくとも私が書くことにおいて追求したいのはそういう部分じゃない。

だからたぶん、webライターとかそういうものには向いてないんだろうなと、最近気づいた。ブログで広告収入とかも狙いたくないし、そういう風に自分の文章を消費したくない。じゃあ何がしたいの?って聞かれると、その辺はまだ曖昧なのだけど。

 

たとえば昨日言えなかったことはなんだろう、あの時言わなかったことはなんだろうって思い返していくと、これでよかったと思うこともあれば、後悔の念に包まれることもたくさん出てくる。狭くて深くてぬるま湯みたいな関係は、最初は心地よいけど、だんだん息苦しくなってくるのだ。

言葉にしなかったことや、逆にいえば言葉にしていた部分で、あの人はわたしの感情をどう受け取って、どう思ってくれたんだろう。それとも、何も思わなかったのだろうか。

そんなことを考えはじめると、キリがない。キリがないし意味がないけど、そんな無意味なこともぐるぐると思ってしまうのがわたしという人間である。

「それって生産性がないよね」っていう全ての人に、そんなことはわかってるよ?!って声を大にしていいたい。生産性がないって言ってるその人だって、そんな風にぐるぐると考えたことが必ずあるはずだ。ないとは言わせない。

 

そうやって、言葉にならなかった部分の気持ちを、わたしはもうしばらく大切にしていきたい。

いつかまた言葉にする時が来るから、いまはとことんこの余白に向き合ってみたい。そんなことを思った。

なぜ今その言葉を選んだのか。なぜあの言葉は選ばなかったのか。これがいつまで続くかわからないけど、もうしばらくこの段階でぐるぐるしていたいと思う。

その先でまた何かが生まれれば、その時は読んでもらえたら嬉しいです。

 

こんなことを言っておいて、明日にはさらっとおすすめのカフェブログとか書いてるかもしれないけど。

それぐらい気まぐれな方がきっとちょうどいい。ということにしておく。