8cmのピンヒール

月を見て綺麗だねと言ったけど あなたしか見えてなかった

大阪人は大阪弁を話さなくてはいけない風潮

最近、「どこ出身?」と聞かれることが増えた。

説明するのはめんどうだけど、こう聞かれるようになってから、正直すごく楽だ。

 

私は、横浜と富山出身の両親の元に生まれた。だから、出身地は兵庫県だけど、つねに標準語の環境にあったし、名古屋に住んでいたこともあったので、小さい時は基本的に標準語を話していた。

 

でも、小学生で大阪に引っ越すことになったので、なんとか大阪弁を習得した。

そしてやっと大阪弁に慣れたなあと思った頃、京都の中学に行ったので、今度は京都弁を習得しなきゃいけなくなった。

 

別に無理して習得する必要もなかったのかもしれない。

でも、その土地の文化に適応して生きることがその時のわたしには必要だった。

 

大阪の小学校に通っていた時は、コテコテの大阪弁を話していてノリも激しく、会話のテンポも早かった。

京都だとそれが怖いと言われたので、話すテンポを3分の1倍速ぐらいにして、京都弁を使いながらゆっくり話すようになった。

そうやって土地に合わせていった方が自分自身も会話しやすかったし、周りからも浮かないので、いつの間にかそんな風に話すのが普通になった。

東京の友達にこうやって言葉を使い分けていた話をすると、それってちょっと関東の人間っぽいねと笑われた。

 

でも、最近はこうやって使い分けるのをやめた。意図的にやめたわけではなくて、大学に入ってからはいろんな地域出身の人がわんさかいるし、もう自分のペースで話してもいいんじゃないかなあと思ったら、使い分けることをしなくなった。

素で話すと、標準語に関西弁がまざるような形になるので、「どこ出身?」と聞かれることが増える。

ある時、両親の話やこうやって使い分けていた話をしたら、今の方が良いって言ってくれる人がいた。

わたしはそれがすごく嬉しかったし、わたしも今のままでいたいと思った。

 

大阪人はなんで大阪弁を話さなくてはいけない、みたいな風潮にあるんだろう。もちろん全ての人がそういうわけじゃないけど。

よく東京の人に「大阪の人って東京に来てもほんとにどこまでも大阪弁を貫くよね」って言われる。

わたしは東京に出ると大阪弁要素がさらに薄くなるので、大阪人のアイデンティティを失いまくってるけど、それでもわたしは大阪人のそういう、自分たちらしさをどこまでも貫くところは好きだ。大好きだ。

ただ、それを強要されると参ってしまう。

以前親しかった人に、「標準語を話すの本気で気持ち悪いからやめろ」と言われたことがある。

その人の前は素の自分でいたかったし、だからこそ"大阪人でいなければいない私"が抜けて標準語ベースになってしまっていたのだけれど、それを否定されるのは本来の自分を否定されるみたいで、すごく悲しくなった。

 

でも、それは、私が"大阪人でいなければいけない私"をもはや無意識のうちに常に意識して過ごしていたせいでもあると思う。

そりゃそれまでコテコテの大阪弁で話していた人が、親しくなった瞬間標準語しか話さなくなったら戸惑いもするだろう。

 

どこの地域に住んでいるかとか、どこで育ったかとかじゃなくて、自分が育った環境で築いてきた自分のアイデンティティは、ちゃんと大切にしなければならないのだ。

人に合わせて適応していく方がもちろん生きていきやすいし、うまく生きていけるのかもしれない。

でも、自分のアイデンティティは自分だけのものだ。世界に1つしかない自分だけのものを、その他大勢に影響されて失ってしまうのはあまりにももったいない。

わたしの場合は、そうやってその場その場に適応しすぎたせいで、逆にどれが本来の自分かわからなくなったし、話しづらくなっていた。

 

こんな風に、両親の出身地と自分の育った地域が違うと意外と苦労することが多い。わたしに関しては名古屋に住んでたこともあったけど。

だってうちの家にはまっっっったく関西人の空気が流れてないし。

引っ越しの影響で地元の友達とかいないから、地域特有のカルチャーとかもそこまで身についていないし。

たぶん、わたし以外にもこんな感じの人はきっとたくさんいると思う。特に東京とかめちゃめちゃいそう。あとわたしと同じ転勤族の家庭に生まれたパターン。

 

そういう人たちには、どこに行っても自分のアイデンティティは失わないようにしようねって言いたい。

ちゃんと大切にしてお互いがんばろうねって。

方言の苦労って意外とあるとおもう、きっと。

 

こんな感じに落ち着いてしまったから、私はこれからも「どこ出身?」って聞かれ続けるのかもしれない。

でも、それも悪くないと思っている。