8cmのピンヒール

月を見て綺麗だねと言ったけど あなたしか見えてなかった

正論ばかりじゃ生きられない

書き続けることだけはずっとしていこうって決めてたのに、最近何も書いてないなあと思ったから、これからできるだけ毎日書く習慣をつけていきたい。

 

人に見られる文章とか、人のために書く文章ではなくて、自分の思ったことを率直に、好きに語る場としてここを使っていきたいので、それが良いことかはわからないけど、わたしの思うことの掃き溜めのような感じで書かせてもらいます。

 

最近、すごくお世話になっている人に、ふと言われたことがある。

何事も期待してはいけないよってこと。

 

最初から期待しなければずっと安定した状態でいられる。期待したら気持ちの上下がひどくなって余計なエネルギーを使う。生産性が悪い。だから期待しないように努力すればいいって。

 

わたしは正論ですねって言った。 

 

でも、それでもわたしは期待したい。別に期待して上手くいかなくても下がったりしない。それは自分でコントロールできるって。

 

実際そんな上手く調整できるわけなくて、落ち込んだりもする。だけど、結局どこで感情を抑制するかのポイントの差だけで、コストパフォーマンスはそんなに変わらない気がしている。

 

わたしはその話をしてくれた人のことをすごく尊敬しているし、大好きだし、これからもその人から学ぶことはすっごくたくさん多いと思う。本当にお世話になってる大事な人。

 

だけど、これだけはやっぱり思ってしまう。

その人の話すことはいつも正論だけど、やっぱり正論だけでどうにもならないこともあるんじゃないかって。

 

感情を抑制して、正論に則って生きる方がそりゃ楽だし正しい。だって正論だから。

その方が効率よく生きられるし、様々なことが上手くいくのかもしれない。

 

でも私は、その中で生まれた気持ちとか想いとかに、やっぱりちゃんと向き合っていきたいと思う。

 

逃げるのは簡単だ。

自分に嘘をつくのも簡単。

人間って案外単純で「自分はこうだ」って思い込むことができる。

決して無理しているとかではなくて、もはや無意識の領域で自分自身に嘘をつくことができる。

自分を守るために。

だって、その方が生きていきやすいから。

 

でも、そうやって嘘をついている自分にちゃんと気づかなきゃだめだ、って、私は思う。

じゃないと、自分のストレスやしんどさの根源がどこにあるかにすら気づくことができないから、いつまでも状況が改善できない。

 

そんなことを言ってるわたしも、比較的いつも感情を抑えてばかりなんだけど。

ちゃんと自分に正直になってみなきゃいけないなって、思った。

 

だってやっぱり、何にも期待しないまま生きるなんて悲しいと思ってしまう。

どうせ心のどこかでは期待してしまうんだから、それなら期待してる自分に素直でありたい。

たとえ結果が伴わなかったとしても、その時に瞬時に切り替えられるようになればいいんじゃないのかなあ。

 

正論は正論だけど、

やっぱり人の気持ちとか思いとか

こういうものが好きとか嫌いとか

楽しいとか嬉しいとか心地いいとか

そういうものって正論だけじゃ語りきれないよね。

って感じです。

 

これに共感してくれるひとも

やっぱり割り切った方がいいって思うひとも

いろいろいるんだろうけど

すくなくとも私は、正論では語りきれないような人間の複雑な感情の部分を大切にして

物事を考えたり、文章を書いたりしていきたいなあと改めて思いました。

 

そんな感じの日曜の夕方です。

 

もっともっとありのままの感情を人がさらけ出せるような、そんな環境ができればいいなあって自分自身がなかなかそうできないから、やっぱり思ってしまうな。

人間って難しいですね。その分面白くもあるけど。

 

それではまた。

ルミネの広告が好きで好きで仕方ない話

ルミネの広告に心を掴まれている女性はたくさんいると思うが、私もその一人だ。ルミネの広告がすきですきですきですきで、特に最近はすきが大爆発しすぎて、毎日ルミネの広告のことを考えている。

 

そもそもルミネって関西にないんだけど、わたしはいつルミネの広告に出会ったんだろう。
最近は東京によく行くようになって、やっとルミネというファッションビルを認識し始めた。最初ルミネを見た時は、「あの広告のビルだー!!」って感動して見事に中に入って服を買った。
地元にルミネがなくてもこんな風にどこかで見た広告に心を掴まれて、入店して商品を買うところまで行動しちゃってると思うと、広告ってやっぱりすごい。

 

ルミネの広告で特に好きなコピーが1つある。

「一目惚れして欲しい。会うたびに何度でも。」

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http://magazine.lumine.ne.jp/

レインボーブリッジを、都心に向かって走る。
右手にそびえるスカイツリー
左手には観覧車のネオン。

忙しそうに働くワイパーの先には、
東京タワーと高層マンション。
むせぶような霧の中。
無数の灯りが揺れるような光を放つ。

梅雨に澄んだこの町に、
わたしは何度でも見とれてしまう。
見慣れたはずの景色の中に、
まだ見ぬ表情は潜んでいる。

 

下の文章は、2012年6月1日付けの新聞広告のみに記載されたボディコピー。
鮮明な画像が見つからなかったので書いた。

 

私は正直、この広告のどういうところが好きかを言葉にしてしまうのは、もったいないと思っている。それぐらい、この広告に込められた力ってすごい。

 

まずこのコピーを読んだ時、私がすぐに思い浮かべたのは、好きな人に会っている時の自分だった。
好きな人にはずっと好きでいてほしい。飽きられたくない。
今もちゃんと好きでいてくれてるのかなって、定期的に不安になる。
女性なら誰もが持っている感情だと思う。

だから、みんな“自分磨き”をする。
おしゃれな服を買い、スキンケアをして、ダイエットをする。

見慣れたはずの景色の中に、
まだ見ぬ表情は潜んでいる。

っていうように、外見を磨くことで、
好きな人に何度も好きになってもらえるような
新しい自分が顔を出すとみんな知っている。

この行動をとる時の女性の心理を一言でまとめたのが、
「一目惚れして欲しい。会うたびに何度でも。」というコピーだと思う。

 

まさにこの行動の中に服を買う行為が含まれているから、無意識のうちに購買意欲に繫がる。

服という言葉を使わずとも、普段女性が言葉に出来ない思いや悩みを言語化することで、女性に共感や気づきを与え、心を捉えて行動させてしまうこのコピーって本当にすごい。

ここに女性の心を支持してる蜷川さんの写真が入ってきて、もうドンピシャに掴んでくる。
色鮮やかで、はっきりとしていて、強い意志や想いが感じられる蜷川さんの写真が、私はとても好きだ。

コピーを書いた尾形さんは、ルミネの広告についてこう話している。

 

尾形:今のシリーズを言葉にするならば、「刺激」「励まし」です。想定するターゲットは、自分のセンスに確固たる自信のある人というよりは、少し迷いながら、自分に似合う物、好きになれる物を探している人。そんな人たちに蜷川さんの写真で刺激を与え、それに反応している自分の心は間違っていないという励ましを言葉で伝えていく。その2つをセットにして表現しています。刺激だけでも励ましだけでもない、その両方があるのがルミネらしさだと思っています。

-広告朝日 クリエーターインタビューhttps://adv.asahi.com/creator/11053053.html

 

もう、ドンピシャだ。
私は自分に自信がない。
好きなことはあるけど、それが自分に本当に向いている事なのか、出来ることなのかと思うと、答えを迷ってしまう。
それでも、やっぱり自分の好きなものを好きだ!って胸を張って言えるようになりたいし、これがわたしに合っていることだって、確信を持てるようになりたい。

常日頃こんなことを考えている私は、ドンピシャにルミネの広告のターゲットなのではないだろうか。というか、そうだと思う。

それに、どんなに強く生きていても、誰にだって必ず弱い部分はあるから、私と同じようなことを思っている女性はたくさんいるんだと思う。だからこそ、この広告は多くの女性に支持されるのだ、きっと。


私は、広告の影響でルミネを見るとワクワクするし、立ち寄ってしまう。

それに、この広告は、“駅ビルからファッションビルに生まれ変わりたい”っていうルミネの課題解決の面だけじゃなくて、これを見たひと一人ひとりにそれぞれ思うことがあることで、誰かの心を少し軽くしたり、救ったりしている。

この広告というか、そもそも広告全般にそういう力があるとは思っているけど、それってやっぱりすごいことだ。

 

同じルミネの広告だと、わたしは特にこの広告に救われたなと思っている。


「誰かのためは苦しかった。自分のためは淋しかった。それでもおしゃれしたいのはなんでだ。」

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散るまでのわずか1週間。
満開の花を咲かせるために、
桜は一年をじっと生きている。
そんな勝手なことをいう人がいる。

桜はいつも桜なのだ。
緑の葉しげる夏も、枝に雪のせる冬も。
花は春服。
桜にとってはそれだけのこと。

東京にはこんなにも桜があったのだ。
淡紅の春を見るたび、わたしは驚く。
誰のためにそんなにも美しくなれるのか。
その答えは、桜だけが知っている。

 

人がおしゃれをする時は、きっと誰かのことを考えている。それは自分かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。どういう場面で、どういう風にこの服を着ようか、考えながら選んでいる。

でも、たとえば片想いの相手のために服を選ぶのは苦しい。その人に会う一瞬のためだけに、その人に一瞬でも可愛いと思われたくて。見てもらえなかったら?気づいてもらえなかったら?そう考えている時間はとても苦しい。

だからといって、自分のためだけに服を選ぶのも淋しい。ひとりだって感じてしまって、孤独になるから。

それでも、おしゃれしたいと思ってしまうもどかしさを感じたりして。

だけど、桜は違う。
誰のためでもなくひとり美しく咲いている。もしかしたら、桜にも想う人がいるのかもしれないけれど。彼女はそれを語らない。

それを見て、あんな風に美しくありたいと思ったりして。

 

女性って基本的に気持ちに矛盾を抱えているものだと思うのだけど、このコピーはその矛盾っていう一番言語化しにくい部分が言葉にされているとおもうし、それを桜と組み合わせているのが素晴らしいと思う。

注目されるのは春だけでも、一年中、いや、もっとずっと何年も、いつだって自分らしく、ひとりで太くまっすぐ美しく立っている桜は、女性の在りたい姿の象徴なのかもしれない。

 

わたしはまさにこんな矛盾を抱えて毎日を生きていた。好きな人のために頑張ろうと思うと苦しいことばっかりだし、かといって一人で立ってしっかり歩いて行こうと思うと寂しいし、それでもかっこいい大人になりたくて、なんでだろう、とか思ったりして。だけどわざわざこの気持ちやもどかしさを言語化することはなかった。

だからこそ、この広告を見た時、共感が生まれたし、こんな気持ちを抱えているのは自分だけじゃないんだって気づいて、心が救われた。

 

本来の目的じゃなくとも、こういう力もあるのが、広告のすごいところだし、私が広告を好きな理由の一つだ。

 

わたしは、ルミネの広告を通じて、自分のこういう気持ちは間違ってないんだなとか、こういう風に想っていいんだなって、元気を与えられた気がしている。
たったひとつの言葉で、嬉しかったり、切なかったりした気持ちや、その時の情景を思い出すことが出来て、一人ひとりの中で物語が作られていく。

誰かの日常の中に、1つの広告がそういう瞬間を生み出しているって、本当にすごい。


まだまだ好きな広告がたくさんあるけど、今回はここらへんで終わりにしようと思う。

関西の人はルミネなんてビル知らないだろうし、広告が目に入る機会も少ないと思うけど、とりあえず1回検索してみて。

女の子は絶対に心を掴まれます。

 

こんな風に人の心を掴む言葉が書けるようになりたいなーと思うはるぴーでした。

 

追記(2018/06/09):

ルミネの2018年夏広告が素敵すぎて、感動したので追記。
モデルは八木莉可子さん。
2018年のルミネ広告は、今を生きる女性像をデザインしているそうだ。

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http://magazine.lumine.ne.jp/

「好きしかない恋なんて。」

 なんとなくわかるようで、わからないような、ちょっと考えさせられるコピー。この解釈はきっと本当に人それぞれ違って、これを見た一人ひとりの中で何か物語が紡がれるんだろうなって、すっごく思った。

ルミネ公式サイトでは、ルミネの広告をもとに書き下ろされた、尾形真理子さんによる短編小説も公開されている。 

www.lumine.ne.jp

 

わたしはこの中ですごくすきな一節がある。特にその中で一番響いた一文がこれだ。

幸せって自己責任なのだ。 

 ただ、ただその通りだと思った。

 

わたしの中にも、この広告のコピーや、この一文から紡がれた物語がちゃんとある。それは手放したくなくて、今はここにも書きたくないような、温かくて切ない、そういうもの。

その先には、この物語が大切だからこそ、自分を変えたいって思いがあって、やっぱり服を買うことに繋がったりする。

 

世の中にはたくさんの広告やコピーがあるけど、わたしは本当にルミネの広告がいちばんすきだって、改めて思った。これからもルミネの広告や、尾形真理子さんが紡ぐ言葉をずっとずっと見ていきたい。

ルミネの広告が好きな人はたくさんいると思うから、それぞれの中でどんな物語があるのか聞いてみたいなあと、ぼんやりと思っています。
いつか誰かと、そんな話が出来たらいいなあ。

 

想いを言葉にするということ

200字という制限を設けられたら、どうしてこうも書けなくなってしまうんだろう。
言葉を扱うのは、本当に難しい。

 

小学生の時、「コトバノチカラ」という題名で作文を書いた。

 

「もともと、言葉はまっさらなもので、使われないかぎり何色にも染まりません。でも、一度使うと、ひとりひとり違う、ひとりひとりの想いのそった色に染まっていきます。」
「コトバをもつということは、自分が自分らしく、ここに存在できるということにつながるのです」

 

なんでこんなことがいとも簡単に言えたんだろうと本当に思う。
原稿用紙約5枚に、素直に思ったままつらつらと書き綴ったのを覚えている。

 

今の私はもう、いろんなことを考えすぎてしまって、まっさらな気持ちで言葉をかけない。
つまり、小学生の私からすれば、きっと今の私は私らしくないのだ。

 

就活に正解はないっていうけど、じゃあなんでこんなに「これが正解」風に見せてくるのだろうか。

プレエントリーはたくさんしなければいけないのか、自己PRは3種類は用意しておくべきなのか、そんなことは誰が決めたのか。

ロジカルって何なのか。そんなことAIがやる世の中になるんじゃないのか。これから大事になってくるのは、いかに感情を持って働けるかじゃないのか。

 

世の中には、「なんかこれ、ズレてない?」ということが多すぎると思う。
それを感じている人はきっとたくさんいる。
そういうことを上手く言葉にして、気づきと共感を与えて、人を動かす人になりたいと心底思う。
なのに今、そんなわたしがいちばん言葉を書けない。
このもどかしさをどこにぶつければいいかもわからない。

 

いつのまにか、人に見せるための文章を書くことが増えた。
人がどう受け取るか、どういうものが必要とされているか、そんなことばかり考えるようになった。
もちろんそれは大切なことだし、これから先どこかに就職して働くことになれば、自分以外の人に対して自分の言葉がどう伝わるか、ひたすら考えることになるのだろう。
コミュニケーションにおいて、言葉の存在はまだまだ重要である。言葉にしなくても伝わる、なんて、そんなのよっぽどのテレパシーがないと無理だ。大多数の人にはちゃんと言葉にしないと自分の思いを理解してもらえない。

それでも、たまには自分のためだけに文章を書きたいと思うことがある。
書きたいことを好きなだけ書く。
そうすることで、頭の中が整理できるような気がしている。

 

みんなきっと思っているはずだ。
リクルートスーツを着ている自分は自分じゃないって。
だってスーツなんて普段着ないもん。
私服でスーツを着ている人がもしいればごめんなさい。
この状況で、自分らしくあるにはどうすればいいのか、まずそこから考え始めなければいけないのがきっと日本の就活である。

 

自分を強く見せるのは、きっと重要なことだけど、下手なプライドを持って何になるんだろう。何がしたいんだろう。
なんで自分の方が優秀だって見せつけたくなるんだろう。
そんなことを考えているように見られている時点で、それってコミュニケーションに失敗してない?って私は主張したい。

 

東京には賢いひとたちがいっぱいいるけど、だからこそ、本当にかっこよく話すひとが多いなと思った。
そんな姿を見て憧れる面もあれば、少し寂しい気もする。やっぱり私は関西人だなあと思う。
ばかみたいに見えるのかもしれないけど、感情全開で擬音語を使いまくって超絶スピードでまくしたてる関西人がやっぱり私は大好きだ。かっこよくなんて、生きれない。

 

こんなことを、東京で1週間生活していて考えた。
ずっとずっとどうすれば自分が伝わる言葉が書けるのか考えていて、本当に何も書くことが出来なくて、何も考えずに一旦、今の自分の思いを書いて見たらこんなはちゃめちゃなことになってしまった。

 

山手線も東京メトロも、渋谷のスクランブル交差点も、もう全部見慣れてしまった。
表参道での乗り換えに慣れて、千代田線を使いこなせるようになった。
いろんな人とひたすら話していたら、昔悩んでた人見知りなんて本当にどこかに消えてしまった。
もう自分はどこでも生きていけるような気すらする。

 

そして、平日の夜はなんだか寂しいものだなあと思うようになった。
日曜日っていうのは大切な人と過ごすためにあるんだろうと最近よく思う。
平日の夜に1人で考え事をしていると、だいたい気持ちが落ちてくるからよくない。

 

自分らしくいようと思うと、少なくとも周りと違う行動をするわけだから、本当にこれでいいのかなって、これが正解なのかなってわからなくなる。
もう少し自分のことを信じられるようになりたい。
周りから何を言われても、ばかにされても、私はこうやって生きる!ってちゃんと言えるようになれば、もっと見える景色も変わってくるんじゃないだろうか。

 

やっぱりわたしはロジカルとか定量的にとかそういうものが苦手で、こうやって定期的に感情を発散しないと生きていけない。
とりあえずいろいろあるけど、結局今の私は200字で自分を表現しないといけないフェーズに戻らなければならない。

 

みんなが好き勝手いろんなことを言っているけど、信頼できる人の言葉に耳を傾けつつも、ちゃんと自分を信じて、自分らしくあろう。貫くべきところでは自分を貫こう。そのために、言葉をうまく扱っていこう。

そんなことを思った。

「想いを言葉にして、人に伝える。」

生きていく中で、私たちがずっとしてきていること。
それをただ、制限をかけられたなかでうまくやるだけだ。

 

3回生のみなさん、そんな感じで、就活頑張りましょう。
以上、エントリーシートに苦しむはるぴーでした。

大阪人は大阪弁を話さなくてはいけない風潮

最近、「どこ出身?」と聞かれることが増えた。

説明するのはめんどうだけど、こう聞かれるようになってから、正直すごく楽だ。

 

私は、横浜と富山出身の両親の元に生まれた。だから、出身地は兵庫県だけど、つねに標準語の環境にあったし、名古屋に住んでいたこともあったので、小さい時は基本的に標準語を話していた。

 

でも、小学生で大阪に引っ越すことになったので、なんとか大阪弁を習得した。

そしてやっと大阪弁に慣れたなあと思った頃、京都の中学に行ったので、今度は京都弁を習得しなきゃいけなくなった。

 

別に無理して習得する必要もなかったのかもしれない。

でも、その土地の文化に適応して生きることがその時のわたしには必要だった。

 

大阪の小学校に通っていた時は、コテコテの大阪弁を話していてノリも激しく、会話のテンポも早かった。

京都だとそれが怖いと言われたので、話すテンポを3分の1倍速ぐらいにして、京都弁を使いながらゆっくり話すようになった。

そうやって土地に合わせていった方が自分自身も会話しやすかったし、周りからも浮かないので、いつの間にかそんな風に話すのが普通になった。

東京の友達にこうやって言葉を使い分けていた話をすると、それってちょっと関東の人間っぽいねと笑われた。

 

でも、最近はこうやって使い分けるのをやめた。意図的にやめたわけではなくて、大学に入ってからはいろんな地域出身の人がわんさかいるし、もう自分のペースで話してもいいんじゃないかなあと思ったら、使い分けることをしなくなった。

素で話すと、標準語に関西弁がまざるような形になるので、「どこ出身?」と聞かれることが増える。

ある時、両親の話やこうやって使い分けていた話をしたら、今の方が良いって言ってくれる人がいた。

わたしはそれがすごく嬉しかったし、わたしも今のままでいたいと思った。

 

大阪人はなんで大阪弁を話さなくてはいけない、みたいな風潮にあるんだろう。もちろん全ての人がそういうわけじゃないけど。

よく東京の人に「大阪の人って東京に来てもほんとにどこまでも大阪弁を貫くよね」って言われる。

わたしは東京に出ると大阪弁要素がさらに薄くなるので、大阪人のアイデンティティを失いまくってるけど、それでもわたしは大阪人のそういう、自分たちらしさをどこまでも貫くところは好きだ。大好きだ。

ただ、それを強要されると参ってしまう。

以前親しかった人に、「標準語を話すの本気で気持ち悪いからやめろ」と言われたことがある。

その人の前は素の自分でいたかったし、だからこそ"大阪人でいなければいない私"が抜けて標準語ベースになってしまっていたのだけれど、それを否定されるのは本来の自分を否定されるみたいで、すごく悲しくなった。

 

でも、それは、私が"大阪人でいなければいけない私"をもはや無意識のうちに常に意識して過ごしていたせいでもあると思う。

そりゃそれまでコテコテの大阪弁で話していた人が、親しくなった瞬間標準語しか話さなくなったら戸惑いもするだろう。

 

どこの地域に住んでいるかとか、どこで育ったかとかじゃなくて、自分が育った環境で築いてきた自分のアイデンティティは、ちゃんと大切にしなければならないのだ。

人に合わせて適応していく方がもちろん生きていきやすいし、うまく生きていけるのかもしれない。

でも、自分のアイデンティティは自分だけのものだ。世界に1つしかない自分だけのものを、その他大勢に影響されて失ってしまうのはあまりにももったいない。

わたしの場合は、そうやってその場その場に適応しすぎたせいで、逆にどれが本来の自分かわからなくなったし、話しづらくなっていた。

 

こんな風に、両親の出身地と自分の育った地域が違うと意外と苦労することが多い。わたしに関しては名古屋に住んでたこともあったけど。

だってうちの家にはまっっっったく関西人の空気が流れてないし。

引っ越しの影響で地元の友達とかいないから、地域特有のカルチャーとかもそこまで身についていないし。

たぶん、わたし以外にもこんな感じの人はきっとたくさんいると思う。特に東京とかめちゃめちゃいそう。あとわたしと同じ転勤族の家庭に生まれたパターン。

 

そういう人たちには、どこに行っても自分のアイデンティティは失わないようにしようねって言いたい。

ちゃんと大切にしてお互いがんばろうねって。

方言の苦労って意外とあるとおもう、きっと。

 

こんな感じに落ち着いてしまったから、私はこれからも「どこ出身?」って聞かれ続けるのかもしれない。

でも、それも悪くないと思っている。

 

東京に、恋焦がれる

 

トウキョーに、夢を見ている。 

 

つめたくてあかるい街、東京。
きれいな思い出も、ばかな過ちも、
ぜんぶぜんぶ飲み込んでしまうような、

そんな恋。

のような。

トウキョーへの淡い想い。

 

こんなばかげたことを言えば、東京の人は笑うだろうか。東京なんて人が多いだけだよ、とか、特に何も無いよって言うのかもしれない。

 

別に、都会に憧れているわけではない。なんなら、わたしはすでに都会っ子だ。あべのハルカスを臨める大都会あべのに住み、御堂筋沿線で生活している。定期券内に天王寺、なんば、心斎橋、梅田の全てが含まれ、道頓堀も電車で10分で行ける。関西人の中なら、恵まれすぎてるほどの都会育ち。それでも、わたしが東京に恋焦がれるのは、なぜか。

 

それは、東京が無機質な街だからだ。

午前8時。乗降客数世界一を誇る新宿駅は、人で溢れかえる。満員電車に押し込まれ、苦しそうな顔をしながら通勤する人々。人を人と思えなくなるような、詰め込まれた車両。

 

初めて東京に1人で来た時、わたしは本当に孤独だった。

インターンの面接は10分で終わり、連絡するような知り合いもいない。どこで時間を潰せばいいのかもわからない。追い詰められたわたしは、なんとなく六本木に足を運び、スターバックスに3時間滞在した後、東京シティビューに1人でのぼった。

 

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スーツを身にまとい、たった1人でスカイデッキを歩き回る姿は、きっとあまりにも滑稽だっただろう。それでも、特に何か言われることはなく、わたしはただ淡々と写真を撮った。話しかけられるような人もいなかった。

人情味溢れる大阪に比べて、ビルが溢れて、人やモノも溢れているのに、つめたくて無機質だ、そう思った。

だからこそ、惹かれた。

こんなにもたくさんの人がいるのに、何故こんなにもこの街はつめたいんだろう。そう思うと、興味を持たずにはいられなかった。

 

でも、状況は変わった。
また東京に来た時、季節は秋になっていた。
わたしはインターンを通じて、東京に友達ができていた。

 

知らない街でひとり。
Googleマップに惑わされて、何度も道に迷った。わけもなくさみしくて心が折れそうになっていた。
でも、そこに友達が現れるだけで、世界は一気にあたたかくなった。

 

定番の渋谷ハチ公前での待ち合わせ。

東京駅ラーメンストリートのつけ麺。

初めて見た丸の内駅舎。

新宿駅西口の台湾ティー専門店。

 

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わたしにとっての東京に、少しずつ色がついていった。

無機質だと思っていたのは、わたしが東京を知らなかっただけだった。一緒にご飯を食べてくれる人がいるだけで、世界はこんなにも明るくなるのかと心底思った。

 

同時に、大阪も所詮地方だと知った。

都会っ子だと思っていたけれど、東京には適わない。最新のカルチャーがたくさんあって、新しい流行がそこにはある。初めて東京に憧れる人々の気持ちがわかった気がした。

 

だからわたしは、トウキョーに夢を見ている。

無機質で、何でもあるのに何も無いように感じていた、わたしにとって未開の地、トウキョー。

そんな土地で大好きな人たちに会い、ご飯を食べることで、街があたたかくなっていく。 周りの人の大切さや優しさのありがたみを、改めて感じることのできる街、トウキョー。

大阪よりもスピード感があって、経済の中心は此処で回ってるんだって主張を無意識に感じさせられる、トウキョー。

温かさを知ってから、もっと東京に夢中になった。

 

東京は怖いとか、見栄っ張りの集まりとか、わたしの好きなアーティストたちは歌うけど、少しぐらい夢を見てもいいのではないだろうか。一生に1度ぐらい、ここなら夢を叶えられるかもしれない、って淡い期待を抱いてもいいよね?

こんなことを言っていたら、「そんなに甘くはないよって早く誰か教えてよ」というチャットモンチーの東京ハチミツオーケストラの歌詞が嫌でも浮かんでくる。 

 

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先のことなんてわからないけど、今はただ、トウキョーに夢を見ていたい。

わたしはこれからも1人、夜行バスに乗って東京に向かい、新宿駅で人に揉まれて、夕暮れ時には月島久栄のメロンパンを隅田川沿いのベンチで頬張る。そして、夜。大好きな人たちとご飯を食べて、大阪に帰るんだ。

 

わたしは、ディズニーランドみたいな人になりたい。誰かにとって、一緒にいるだけでぱっと明るくなるような、そんな存在でありたい。

周りの人を笑顔にするとか幸せにするとか、新年の目標として簡単に掲げる人が多いけれど、これほど難しいことは他にないと思う。それでもわたしは、無機質な街トウキョーで、誰かと一緒にキラキラ輝けるような、そんな人になりたい。

 

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2018年は、東京で胸をはって笑うわたしになる。

それまでは、恋焦がれさせて。

 

 

 

2017年のこと

あけましておめでとうございます。すっかり年が明けてしまいましたが、以前書き溜めていた2017年の振り返りを此処に記します。

最近はもうこういうこと書かなくなってたけど、今年はなんとなく。

中高生の時のデコログみたいに、ひと月ずつ書いていくみたいなことはしないけど、わたしなりに。

今年は、わたしにとって変化の年でした。変化っていうのもちょっと違う気がするけど、わかりやすくいうと変化。

大学に入って、もちろん頑張っていたこともあったけど、何かが違うなってずっとずっと思っていて。毎日全然楽しくなくて生ける屍みたいな生活をしてました。何がやりたいかもわかんないから何もやらなかった。そんな自分がすごく嫌いだった。でも、どうすればいいかわからないまま3回生になってしまいました。

それでもそれなりにいろんなことがあって、悩んだり、人がこわくなったり。もともと人見知りだったけど、さらにそれが悪化して、いつのまにか自分を全く出せなくなっていました。

だから、こんな自分が本当に就職できるんかな?って恐怖からインターンや就活セミナーに行き始めたのが5月。

でも、今はそんな気持ちでインターンには行っていません。ちゃんと目的を持って行ってる。だから自分が就活をしているって感覚はあまりない。こんなことを自分が思うようになるなんて、思いもしなかったな。

今年は本当にいろいろな出会いがあって、自分自身が変わりたいと思う大きなきっかけがあった。

 

決定的なターニングポイントだったのは、とある会社のインターンに参加したこと
9月13日の夜に、チームのメンターさんから衝撃的なことばをもらって、14日の夜、初めて本気で変わりたいと思った。本当はそういうモチベーションになってはいけなかったのかもしれないけど、私はあの時、たとえ次に進めなくても、今はダメな自分をみんなに全部さらけ出して、そんな自分を自分自身も受け入れたいと思った。それをしないと、自分はこれから変われないなって思ったから。

それから、帰ってきて、いろいろ考えてみた。やっぱりどこかみんなに壁を作ってしまって、これからも関わっていきたいと思ってもらえるような人にはなれなかったなあと思うと、その3日間がただ悔しかった。やっぱり変わりたいって改めて本気で思いました。

だから、きっとみつかるカフェでライターを始めてみたり、いつのまにか惰性で続けてたコミュニティを辞めてみたり。一歩踏み出してみた。少しずつ勇気は出せるようになった。でも、まだ変われていなかった。


そして、どこかもどかしい気持ちを抱えたまま、これでいいのかなって迷ってた10月末。インターンでチームが崩壊して大失敗して、しぬほど落ち込んだ。落ち込んで、落ち込んで、落ち込みまくって、話を聞いてもらったりもして、落ち込みまくった先に、突如開き直った。


わたしはわたしだ!!!って。
自分の本当の気持ちが伝わらないまま人との関係が壊れるぐらいなら、わたしはわたしの思いをちゃんと伝えたい!!!って。


開き直ったら、性格が変わりすぎて自分でもついていけなくなった。変わったっていうか、自分は今まで人生においてどれだけ本来の自分を隠してたんだろう?!って。
長期インターンをさせて頂きたいってお話したのもこの頃。

そんな状態で今年1年の中でも最も素直な気持ちで挑めたインターンが11月11日、12日の株式会社リッチメディアの2days。

一番嬉しかったのは、はるかの言葉なら信じられる、はるかがいてよかったってメンバーが言ってくれたこと。
それから、私に対してまっすぐに的確なダメ出しをしてくれる友達ができたこと。
これからも関わりたいって言ってもらえたこと。
もともとえげつない人見知りって言っても信じてもらえないぐらい人見知りがなおったこと。

もちろんその分ダメな部分もいっぱい指摘してもらったんだけど、変われたことが嬉しくて、びっくりして、うかれました。そして、ハメをはずしました。

だから11月はそのあと、それなりに落ち込むことも多くて、落ち込んだり回復したりをひたすら繰り返してた。12月も結構そんな感じだったと思います。


5月の自分を思い出すと、今の自分は確実に良い方向に向かってるっておもうけど、それでもやっぱりへこむこととか多くて。まだまだだなって、まだまだ頑張らなきゃって思わされているのが今です。

11月の2daysのインターンでチームの子が言ってくれた、自分の人生の軸をもつべきとか、そのあたりのことがただひたすらぐさぐさと刺さっています。

いまわたしにはこんな人になりたいって気持ちが明確にあるし、その先の夢も一応ある。
でもやっぱりどこか曖昧だから、もっと人に語れるぐらい明確な夢をもちたいなあ。

反省点も多い1年だったけど、自分がこんな風に、夢をもちたい、なんて一見ばかみたいなこと言えるようになるとは思わなかったし、自分が素をさらけ出した時に、180°性格が変わるとは思ってなかった。

一年前とは確実に違う自分がここにいます。

それもこれも全部今年出会った人たちのおかげ!!!

ほんとは変化っていうより開花!!!って言いたいけど、今の自分に全然満足してないからそれは言いません。それは、2018年の目標にしようと思います。

出会えてよかったっておもえる人、これからも連絡とりつづけたいなっておもえる人、心から尊敬できる人に、本当にたくさん出会った1年でした。

いろんな人に出会って、支えてもらって、わたしは変われました。
本当にありがとうございました。

2018年はもっともっと、関わる全ての人に楽しい気持ちや幸せな気持ちを与えられるような!笑顔になってもらえるような!そんな私でいれるようにがんばります。

今年1年笑顔をくれたたくさんの方々、本当にありがとうございました。 お世話になりました。

8cmのピンヒールで駆ける恋

消せないメールの行方 冷めにくい熱だった

太陽が迎えに来ても 覚めにくい夜だった

化石になった脳みそが 私のからだを支配して

寝返りを打つたびに 右左にコロコロ

8cmのピンヒールで駆ける恋

8cmのピンヒール / チャットモンチー

 

チャットモンチーが解散を発表した。“完結”だという。

すきなバンドだったけど、なんだかすっと受け入れられた。

あーそうなんだって。それぐらいのこと。

それから、なぜか8cmのピンヒールのことを思い出した。

 

8cmのピンヒールは、チャットの中でも5本の指に入るぐらいすきな曲。

すきなひとのために無理してがんばる女の子が意地らしくて、せつなくて大好き。

 

 

歩幅を合わせて歩いた 転ぶとわかっていたけど

痛みも忘れてしまうの あなたは優しいから

 

ねぇ私のこと全部わかるって言ったけど

あなた何も見えてなかった

この涙はね あなたの全てを盗むため

真っ白いハンカチにつけた染み

 

 

私は、この2番の歌詞が好きで好きでたまらない。

 

好きな人のために、無理して履いた少し高い8cmのピンヒール。

痛いのを我慢して、歩幅を合わせて歩いた。

「全部わかるよ」って言われたけど、この涙も本当はウソ泣き。

 

女の子ならきっとだれでも共感できる。

 

妥協からは、何も生まれない。

わたしのことを好いてくれるから、わたしもこの人を好きになりたいとか

この人を好きになれたら幸せなんだろうなあとか

そういう感情を抱いたことがない人はいないと思う。

 

でも、それじゃだめだ。

 

無理してすきになっても、すきになろうとしても

すきと依存をはき違えるだけで

いつのまにか本当の気持ちも、自分自身も見失ってしまう。

何もわからなくなる。

 

それがいちばんこわい。

 

好きな人がいた方が毎日が楽しいからなんて、自分勝手で恋に恋してるだけ。

あの頃だって、生ぬるいミルクティーみたいな、そんな時間が淡々と続いていた。

 

それでも、高校生だった時のことを思い出すように、たまにあの人のことも思い出すかもしれない。

そこに恋とか愛とか悲しみとか、そういう言葉はなくて、ただアルバムを開くように無機質に思い出す。

 

妥協すれば、男は別フォルダに入れて、女は上書き保存なんていう、薄っぺらい言葉に妙に納得してしまうような、そんな恋が生まれるだけだ。

 

最後には、冷蔵庫に入れて終わり。

冷たいのかな、けどそんなもん。

 

到底無理なひとだってわかってても

それでもすきだって胸を張って言えるような

諦めずに追いかけられるような

そんな女の子は本当に素敵だ。

 

8cmのピンヒールで駆ける恋

まっすぐで一生懸命な女の子のうた。

 

恋人に全部ぜんぶ合わせてしまって

でもすきだから我慢して

時には優しさに心踊らされて

好かれるためならなんだってした

上手くいかなくなるのはわかってたけど

それぐらい好きだった

あなたは私のこと何もわかってなかった

最後まで一方通行の恋だった

でも、それでもすきだった

 

結局、女の子は振り回される運命なのかもしれない。

ばかみたいに追いかけて、勝手に傷つく。

 

財布を預けられると、信頼されたような気になってしまったり

コートを渡した時に手が当たって、少しドキッとしたり

そんな安っぽくて幸せな記憶に包まれて、女の子は生きている。

 

白馬の王子様は迎えに来てくれないことなんて、とうの昔にわかっているけど、そんなことはどうでもいいのだ。

 

好きな人のことを、ただ、好きでいたい。

8cmのピンヒールは、そんな女の子の気持ちを本当に上手く代弁した曲だと思う。

 

解散してしまっても、曲は残る。

私はこれからも、最寄り駅から家まで歩く時、月を眺めながらこの曲を聴くだろう。

 

チャットモンチー、おつかれさまでした。

ありがとう。